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機動隊が撤退をはじめた頃、マリアはテロリスト達が立て籠もっているビルのすぐ隣から、潜入しようとしていた。普通なら、はめ殺しになっている窓ガラスを割っただけでも侵入者の存在を告げる警報装置が働き、けたたましいベルの音をビル中に響き渡らせると同時に赤外線監視カメラが人間の存在を探知してターゲットに照準をあわせ、その姿を撮り続ける仕組みになっているのだが、幸運なことにテロリストがあちらこちらのケーブルや配線を爆破して切断してしまっているために、今回ばかりはたとえ最新の警備機構を兼ね備えていたところで、何の役にもたたなかった。 マリアはテロリストに不審を抱かせないためにも、もとから割られていた窓を選んでそこから侵入した。 「さてと・・・ルカたちのいる部屋は二階か」 足音を立てないように、機動隊から特殊ラバーの靴底のシューズを借り出してきただけあって、コツとも音がしない。濡れた場所を歩いても滑らない、という優れものである。気配を消し、息を殺しながら階段を下りていく。 二階までは五階分の階段を下りなければならない。・・・下へ下りていくごとにテロリストの仲間と出くわす危険が大きくなっていく。マリアは麻酔銃を握り締めた。人質のことを考え、実弾入りの銃は使わないことを前提にしての行動である。普通、麻酔銃といえば大して効果がないものの代名詞になっているが、これは昔、地上に存在していた象という巨大な動物でも二、三秒で眠ってしまったという、強力な麻酔薬が仕込まれている。願わくば、実銃を使用しなくとも済むように・・・。 「あの女、どこへ行きやがった？」 三階まで下りてきた時、突然、声がした。マリアは息をひそめて気配を窺った。 青年はまさか警察------マリアがすでにビル内に、しかもすぐ近くまで潜入しているとは思ってもいないのだろう、外の様子を伺いながらしきりにぶつぶつ呟いていた。 「まさか諦めて、素直に撤退するようなタマじゃないと思ったんだが・・・」 周囲に人影はない。どうやら実行部隊の男と単独行動をする役を交替したのだろう、人質の見張り役はもちろん、実行部隊の男も二階の部屋に一緒にいるようだ。マリアは安心してゆっくり銃をかまえ、青年に二発麻酔弾を打ち込んだ。 「ぐっ・・・！」 青年は短く苦鳴の声をあげたが、すぐにぐらりと身体のバランスを崩した。さっと青年の体を支え、すぐ近くの空いている部屋へ運び込み、後ろ手に手錠をかけて両足を縛り上げる。戦闘服の肩口に付けてあった無線をむしり取り、布を口に突っ込んで猿ぐつわを噛ませると、外から部屋に錠を下ろした。 「お前の言うとおり、素直に諦めるようなタマじゃねーんだ。悪かったな」 あと二人。マリアは銃を握り直し、階段を下りていった。 二階の表通りに面した部屋、ルカが包囲網を解除しろと頼んできた窓・・・見取り図から割り出したその部屋へゆっくり近付いていくと、確かに中から人の気配がする。扉に付けられた小窓からそっと覗くと、後ろ手に縛り上げられた人質八人と、意外と冷静な表情で座り込んでいるルカの姿が見えた。ルカが縛られていないのはこれからの作戦上、有り難いのだが・・・どうやらテロリストたちはルカの坊や坊やした外見から、人質にされているＯＬ以下の働きしか出来ないと見做したようだ。縛り上げられて喜ぶヤツもいないだろうが、ここはやはり馬鹿にされていると怒ったほうがよいようだ。実際、どことなくルカは憮然としているように見えるではないか？ 不意にルカがこちらを向いた。マリアに気が付いたらしい。しかし、ルカはマリアが何か合図をする間もなく目を逸らしてしまった。気が付かなかったのだろうか？いや、しかし確かにルカの目はマリアの目をしっかりと捉えていた。マリアがすぐそこまで来ていることをテロリスト達にはもちろん、人質達にも悟らせないために、わざと気が付かないふりをしたのだ。人質はすぐそこまで警察官が救助にやってきたと知れば、必ずそわそわしながらマリアのいる方に目をやるに違いない。そんなことをすれば、テロリストたちにわざわざマリアの居場所を教えてやるのに等しい。 マリアも人質達にも気取られないように気を配りながら部屋の様子を探った。中年の男は人質達に目を配りながら、時折時計に目をやっている。あの見張り役の青年から撤退の合図が出るのを待っているのだろう。その隣には実行隊らしい男が黙々とナイフの手入れをしている。 この状況で、どう攻めるべきか。 仲間から連絡がないことを訝って、二人のうちどちらかが部屋を出るのを待ち、一人ずつ片付けるべきか。責めあぐねてマリアが考え込んでいると、人質の女性がマリアに気が付いたらしく、怯えと期待を綯い交ぜにした目で縋るような視線を投げ掛けてきた。 「・・・」 まだ騒ぎださないだけマシだが、あんなに期待に満ちた目で見つめられては、すぐに見つかってしまう。マリアは首を振り、あまりジロジロ見るなと合図したが、女性にはその意味がわからなかったらしい。一層縋るような視線を向けてくる。 「・・・チコ！」 人質の異変に気付いた中年の男が叫びざま、すぐ側に置いてあった手榴弾のピンを抜いた。 「ちっ・・・！」 マリアは鋭く舌打ちし、扉を開けて中へ飛び込みながら麻酔弾を連射した。しかし、体勢を大きく崩しながら射ったために、壁に大きな穴を数個空けただけで肝腎の的には当たらなかったらしい。中年の男が手榴弾を投げ付けようと振りかぶった。逃げ切れるかどうか・・・マリアは立ち上がらず、膝をついた体勢のまま、横へ大きく飛びすさった。それと同時に、中年の男の手から手榴弾が放たれる、その瞬間------ 「マリアさん、ナイフに気をつけて！」 人質を縛るために引き裂かれた、細長いカーテンの切れ端を掴み、ルカが手を閃かせると、布がまるで生きもののように翻って手榴弾に巻き付いた。もう一度手首を軽く捻っただけで布はルカの元へ戻り、頭上で手榴弾を落とした。左手でそれを器用に掴み取ると、そのままバックハンドで窓ガラスに腕ごと叩きつける。 間一髪、ルカが爆風を避けるために床へ倒れこむのと窓外に捨てられた手榴弾が炸裂するのとが、ほぼ同時だった。 「このアマ・・・！」 男がナイフを投げ付ける。ルカの叫び声に気付いていたマリアは、麻酔銃を盾にしてナイフを防いだ。鋭い金属音がして、ナイフが床に落ちて跳ねる。 「チコ、かまうな！」 中年の男が叫ぶ。もはや仲間の青年は敵の手に落ちていると悟ったのだろう。いや、それどころか自分たちの安全も危ういかもしれないのだ。リーダーらしく状況から判断を即座に下し、実行に移すところはさすがといってもいいくらいだ。男も中年の男の言葉に従い、すぐにマリアや人質たちへの未練を捨て、拳大の布の包みを投げて寄越し、背を向ける。 「マリアさん、目を閉じて！」 ルカが叫びざま右手をふるった。布の包みが床に落ちる前にカーテンの切れ端がくるりと巻き付き、持ち上げると窓の外へ排除した。 「何だ、あれは？！」 「目つぶしですよ！文字通り『目つぶし』で、目の中に入ったら半年は弱視同然の視力になるんですっ」 怒鳴り合いながら、テロリストたちのあとを追う。一階のホールまで下りたとき、爆音をきっかけに突入してきた機動隊とテロリストが衝突し、戦いを始めていた。 「まずい、武器をどうにかしないと怪我人が増えるぞ」 どうにか、と言ってみたところで、近付く者あらば切りつけようとナイフを振りかざしているのだからこれは厄介だ。逆上したチンピラが暴れているだけなら問題はないのだが、何しろ相手は筋金入りのテロリスト、しかもたった三人でこの大きなビルを占拠してしまったほどの行動力を持つ精鋭たちだ。あの見張り役の青年の時のように油断していたのならともかく、自分の持てる戦闘能力をフルに活用して危地を抜け出そうとしているのだから。 狭いところへ大勢の隊員が入り込んでしまった時点ですでにミスを犯しているが、もともとこういった狭い場所や足場の不安定なところといえばゲリラ戦法と相場が決まっている。機動隊はどちらかというと広い場所で、数にものを言わせた人海戦術を得意としているだけに、この状況では数では勝っていても大勢的には機動隊が不利だ。じりじりとテロリストに圧されていく・・・機動隊側に負傷者がかなり出てきた。 中年の男が、目の前に立った機動隊員にナイフを突き立てようと腕を振り上げた時------その瞬間を待っていたかのようにルカの右手が閃いた。布が中年の男の右手首に巻き付き、捻りあげる。そのまま手繰り寄せようとルカが布を引く。中年の男は舌打ちし、右手のナイフをさっと左手に持ちかえ、手首に巻き付いた布を切ろうとしたが、それより早くルカが布を引き上げ、また左手首に巻き付けてしまった。まるで生きもののように動く布。それ自体に命が宿っているようだ。右に、左に、中年の男をからかっているかのようにひらりひらりと動く。 「・・・とった！」 布が、中年の男の両手首をまとめて捉えた。たちまち機動隊員がどっと押し寄せ、中年の男の姿を見えなくしてしまった。狭いホールに収容許容人数を越えた数の人間がひしめきあっているのだ、たとえゲリラ戦法に長けた男たちでもこれでは無理というものだろう。中年の男が捉えられたあと、すぐにもう一人の男も取り押さえられてしまった。 「いっぱい怪我人が出ちゃいましたね」 ルカが布を手元に引き戻しながら、心配そうにホールを見渡した。幸い死者は出なかったようだが、男たちのナイフに腹を抉られ、喉を切り裂かれた機動隊員たちが救急車に乗せられていく。マリアが口を開きかけた時、裏口から突入した別動隊が二階から人質にされていた会社員やＯＬを連れて下りてきた。 「人質が監禁されていた部屋にあったものですが、マリア刑事、この銃はあなたのものですか？」 隊員が差し出したのは弾丸を発射したときの反動が小さく、口径も小さい女性用とされている小型の拳銃だった。 「あ、それ、僕のです」 ルカが銃を受け取り、ぺこりと頭を下げる。 「あたしのはこれ」 それと対照的にマリアがジャケットの内側から取り出したのは四十五口径の大型拳銃で、その反動の大きさたるや、屈強の男性でも構え方が悪ければ肩の関節を外してしまうというスグレモノだ。 「なんだ、銃を持っていたのなら、そんな妙な布切れなんか使わずにそれでマリア刑事を援護すればよかったのに」 「そうだよ、そうすりゃもっと早く片付いていたぜ」 「人質にも危険な目にあわせなくても済んだんだ」 隊員たちがここぞとばかりに責め立てる。結果的にはルカがテロリストたちに捕らえられたからこそ、敵側の情報を手に入れることが出来たとは言うものの・・・いや、それだってルカのおかげかどうか、わかったものではないのだから。 「そ、そんなこと言われても」 ルカは一瞬何かを言いかけ、ふと口をつぐんだ。が、すぐに気の弱そうな苦笑を浮かべた。 「恐ろしくって、それどころじゃなかったんですよ。もう、銃を持ってたことも忘れちゃってたくらいで」 「忘れてた、って・・・」 仮にも警察学校を出てきた人間が？ 命の危険に直面して怯えるだけなら、まだ理解できる。何年も経験を積んだベテランでも、やはり緊張と恐怖との縁は切っても切れないものがある。だが問題はそこからで、落ち込むわけでもなく、恥じ入るわけでもなく、のほほんとしていられては困るのだ。 こいつ、これでも刑事か？これでも、総合警察庁本部刑事課にこの人ありと恐れられているマリア刑事のパートナーなのか？呆れた、といわんばかりの冷たい眼差しと奇妙な沈黙が漂う中、マリアはぽつりと言った。 「死にたいなら、止めないよ」 「え？」 「だけど、それなら地下街の最下層にでも行くんだな。こっちはお前の面倒まで見切れない」 背を向け、歩きだしたマリアの背を、ルカだけが驚きの目で見つめていた。 人質になっていた時怒鳴ったように、人質になるなどあってはならない失態だ、と叱られると思ったのに。ある程度経験を積んだ相手ならともかく、新米相手なら、いちいち行動の規範を教えてやらねばならないからだ。なのに、マリアはそれをしなかった。ということはつまり、ルカの行動に対しては文句はあるけれど間違ってはいなかった、と認めたことになる。 まさか、自分を認めてくれるなんて。 「こらあ、いつまでぼーっとしてるんだ！次の仕事にいくぞ！」 「あ・・・あっ、待ってくださいよ、マリアさん！」 |