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薄暗い廊下の向こうに、ほのぐらい明かりが見える。危険な洞窟探険も、終わりが見えてきた。マリアとルカは銃を握り締め、慎重に進んでいった。 「・・・なんてこった」 マリアが呟く。一番つきあたりの部屋に入った二人を待っていたのは、血の惨劇と純愛の入り交じった姿だった。 「あなたたちも、私たち二人を引き離しにきたのね」 追い詰められたような女性の声。床に倒れている、すでに黒く変色してしまった血染めの白衣の集団の向こう側の、ガラスケースの前に立つ嫋かで美しい女性。淡いブロンドが肩から腰へ流れ、柔らかくカールしている。怯えたような光を放つサファイア・ブルーの瞳は冴々として、理知的な印象を見るものに与えずにはおかない。 「お願いよ、わたしから彼を奪わないで」 血染めの白衣の集団------おそらく彼女の同僚だった人々------の遺体の前で、女性は涙を流した。 「私たちは愛し合っていたのよ・・・将来を堅く約束していたのに、彼は事故で死んでしまった・・・死んでしまいたいほど、悲しかったわ」 「同僚をガード犬に殺させる程、悲しかったわけかい」 尖った声でマリアが言った。 「ズタズタになった同僚を、こんな物凄い異臭を放つまで放ったらかしにしておくほど、あんたの嘆きは深かったとでも言いたいのか？」 「私は彼に生き返ってほしかった、ただそれだけなのよ・・・誰にも迷惑を掛けない、ただ二人で生きていきたかっただけなのよ！なのに、みんな私が作り上げた彼の体をばらばらにしてしまおうと・・・もう一度殺そうとしたのよ！」 彼女の狂気のような愛情、死んでしまった恋人を再び生き返らせようとする異常な行動。彼女の同僚たち、この研究センターの人々は驚き、そのおぞましさに震えながら（彼女の愛の深さに涙しながら？）彼女の実験を止めようとした。死んだ人間を再び生き返らせようとする神を畏れぬ所業に恐れおののき、遺体をつなぎあわせた蘇生体を無に返そうとした。 だが、彼女にはガード犬がついていた。同僚たちは彼女の操るガード犬に引き裂かれて、命を落とした。そしてそのまま、彼女の仕事が完成に近付いていくのを見守っていた・・・・・・ 「あと少し・・・脳が体と適合すれば、彼は生き返るのよ」 「生き返らされる相手の苦痛は関係ないのかよ！愛する家族や恋人の遺体を盗まれた家族や被害者たちの気持ちは無視して、痛くもかゆくもないって言うのか！」 「あなたにはわからないわ！」 哀願する女性の声が不意に厳しくなった。激しく責め立てるマリアの言葉に反発し、叫んだ。 「あなたにはわからないんだわ・・・私がどれだけ彼のことを愛していたか！どれだけ私たちが愛し合っていたか・・・彼が死んでどれだけ悲しかったか、どれだけ辛かったか。この気持ちは誰にもわからないんだわ・・・愛する人を亡くしてしまった人間にしか、あなたのような粗暴な人間にはわからないのよ！」 このクソアマ、人がおとなしくしてりゃあいい気になりやがって。 マリアは狂暴な気持ちで女性を見つめていた。 たしかに、この女性は美しい。彼女が背中にかばっている蘇生体も、整った顔立ちをしている。おそらく男性が生きていた頃には理想のカップルとでも、もてはやされていたのだろう。恋人を失って、悲しみにうち拉がれている気持ちも、わからなくはない。大事な人を失って、もう何も考えられない気持ちなのだろう。 誰に言われるまでもなく、自分はかなり乱雑で粗野な性格をしていると思うし、今まで恋人など作ったこともなかったし、作りたいと思ったこともなかった。まず生きていくことだけで精一杯で、それどころではなかったということもある。だが、目の前で泣いているこの女性ほど優しく、しおらしい女性であるとは到底言えないことだけははっきりしている。自分が「可愛い女性」であるとも思っていない。 だが、そのやっかみだと言われても、マリアは目の前に立つ女性に対する怒りを抑えることはできなかった。自分の悲しみや苦痛ばかりを訴え、自分の行為によって傷つけられている人間がいるのだということを考えもしない。自分さえ良ければ、それでいいと思っている。そんな人間の「悲しみ」などわかるはずがない。わかってたまるか、という気持ちでいっぱいだ。 「あなたなら、わかってくれるわね・・・私の気持ちを、悲しみを、理解してくれるでしょう？」 女性は黙っているルカを見つめた。 「ルカにだってわかるもんかよ、馬鹿野郎！」 しかしマリアの名台詞は、マリアの口から出るより先にルカに封られてしまった。 「あなたの気持ちなど、僕にはわかりません」 「・・・ルカ？」 マリアは驚き、振り返った。きっと、彼女の悲しみを感じて、何も言えない、何もできないと思ったのに。だからこそ、マリアは刑事として、必要以上に、女性に強く出たのに。 「わかろうとも思わないし、わかりたくもないですね」 ルカの口調はとても静かで、同じ立場で聞いているはずのマリアでさえ、ひやりとしたものを感じるほどの冷淡さだった。 「悲しい？あなたが悲しみを感じているとでも言うんですか？」 「当たり前でしょう？恋人が、愛している人が突然死んでしまったら・・・老衰でもない、自然死でもないのに突然、死んでしまったのよ？私を置いて・・・」 「いいえ、あなたは悲しんでなどいない。あなたは彼を愛してはいない」 ぴしりと決め付けるように、ルカは言った。その声は静かで、マリアのように怒鳴り付けはしない。なのに、ルカの声にはマリアの恫喝を遥かに超える厳しさが存在していた。 「なぜなら、あなたが悲しいのは、彼が死んだからではないからです」 「どうして・・・じゃあ一体、何だというの？！」 「彼が側にいない、そのために辛い思いをしているあなたのために悲しんでいるんです。自分が辛いから、我慢できないから」 「どうして？！私は彼を愛した、彼は私を愛してくれた・・・それで十分じゃないの！わたしたちには、それだけで・・・どうしてわかってくれないの？！」 「わかるはずないでしょう！」 突然、ルカは声を荒くした。傍で聞いていたマリアまでもがびくりと震えてしまうほどの声。 「あなたは、・・・いえ、あなた方はこの世に、たった二人きりで生まれてきたんですか？二人だけで生きてきたんですか！誰の手も借りずに、どんな人の世話にもならずに、二人だけで全てを乗り越えてきたとでも？！」 「それとこれとは違うわ！これは、私たちだけの問題よ」 「じゃあ、あなたの後にあるものは一体何なんです」 「なにって、わからないわけじゃないでしょう？これは私が彼を生き返らせようと」 「生き返らせようと、何です？僕にはそれがさまざまな人たちの遺体を切り刻み、つなぎあわせたものとしか見えませんよ。その遺体、あなたの恋人の体ではないのでしょう」 「ええ、彼は事故で亡くなった・・・遺体の損傷が激しすぎて、どうしようもなかったのよ」 「へえ、二人だけの問題なのに、都合よく第三者の助けを借りるんですね。まるでご都合主義の純愛ドラマを見ているような気分ですよ」 物凄い皮肉だった。彼らは------少なくとも彼女は恋人を助けたい一心で、犯罪に手を染めた。あまつさえ罪に怯える同僚たちを皆殺しにさえした。 一人を助けるための多数の犠牲。多数を救うための少数の犠牲ならば許される、ということでは決してないが、たとえどんな正当と思えるような理由を捜し出してきたところで、それは反対するものや自分自身の良心の呵責を抑圧するための大義名分でしかない。双方をたてることなど現実には不可能なことだが、それを正当化することは誰にもできない。 戦争で何百人もの敵を殺した兵士が自国では英雄でも、当の敵国にとっては尊い人命、同胞を虐殺した悪鬼でしかないのと同じように。 「あなたはさっき、誰にも迷惑を掛けない、二人だけで生きていきたいだけだと言いましたね。死んでしまった彼を生き返らせようと死体を盗みだした時点で、すでに大勢の人々に迷惑を掛けているのですよ。病院の関係者に盗まれた死体の遺族、出入りの葬儀社の人間、通報を受けた係官、捜査に当たっているぼく達、立ち入り捜査を受けた研究所とそこで働いている人たち・・・みんなあなたのためだけに、大変な迷惑を被っています。もうとっくに大迷惑ですよ、寝呆けたことを言わないでください」 「それは、・・・」 「あなたは彼を愛したわけではないのですよ。彼を愛していたのなら、きっとこんな馬鹿げたことは思いつかなかったはずですからね」 「どうして・・・？確かに私、他の人のことを考えていなかったかもしれない・・・でもどうして私が彼を愛していないと言い切れるの？！」 「彼はこんなことに手を染めたあなたを見て、喜ぶ人でしたか？」 「えっ・・・」 マリアとルカに対し、激しい敵意を剥出しにしていた女性が、怯んだような表情を見せた。 「彼が愛したのは、他人の気持ち、感情を踏み躙っても平気で言い訳をする女性だったのですか？」 「それとこれとは・・・別でしょう？私は、私が彼を愛していないというその理由を聞いているのよ！」 「簡単ですよ。あなたが愛したのは彼ではなく、あなた・・・自分自身だったからです」 「わたし？」 「あなたが愛したのは、彼を愛しいと思っている自分、彼のためならどんなことでも------たとえ死体を盗みだすという犯罪でさえも犯すことができる自分、そして彼を生き返らせることができる自分・・・あなたです」 「だから、どうしてそんな」 「彼を愛していたのなら、わかるはずですよ。あなた、盗んできた死体をつなぎあわせているとき、何を考えていましたか？」 「え・・・」 「彼のこと、考えましたか？」 興奮し、白い肌をほんのりと桜色に染めていた女性の顔から、血の気がさっと引いた。蒼白になり、がくがくと震えだす。おそらく、ルカの言いたいことがわかったのだろう。 「あなたが考えていたのは、一度死んだ細胞をつなぎあわせて、蘇らせることができるのかどうか・・・純粋に科学的な興味だけで、興味深い実験を行なっているような気持ちだけで、『恋人』の蘇生を行なっていたんでしょう。違いますか？」 「そ・・・んな・・・」 「だからこそ、あなたの実験を邪魔しようとした同僚たちを殺した。あっさりと、簡単に・・・誰よりも愛した恋人を失ったことのあるあなたが、彼らの家族のことを考えなかったとは思えませんね。愛するものを失うことの辛さを・・・残されたものの辛さを、あなたは味わったのではなかったのですか。それとも、自分たちのためなら他人の悲しみなどどうでもいいのですか。それが、人を愛するということですか？」 「・・・」 「あなたにはわからないでしょうね、きっと。愛するものと引き裂かれた人間の気持ちなど、わかるはずがないのでしょうね」 「いいえ！私は彼を愛していたわ！彼を愛していたからこそ、どんなことでもやった・・・」 「愛を口実にするのはやめなさい！」 マリアは一瞬、ルカが自分よりも年上の人間のような錯覚に陥った。今までのあの気の抜けたようなしゃべり方や、間の抜けた失敗をしでかしてきた人間と同じ人物なのだとは、俄には信じがたい思いだった。 人間は愛という言葉に幻想を抱きがちだが、年若く、狭い世界しか知らない人間はとくにその傾向がある。しかし、ルカは・・・・・ 「愛しているから？愛していたら、何をやっても許されるんですか。じゃあ、誰か見知らぬ人間があなたの愛する恋人をナイフで切り刻んでも、その理由が『愛しているから』であれば、あなたは許せるんですか。そんな身勝手な人間を、あなたは許せるんですか？」 「そんな、極端よ！誰もそんなこと・・・」 「あなたは、しましたよ。彼を愛しているから、だから死体を盗みだし、その体を切り刻んだ。遺体の家族が、切り刻まれた本人がどう感じたのか、そんなこと考えもせずに、ただ『愛しているから』という理由でその行為を正当化した。愛というものを都合よく、自分の勝手で解釈するのはやめなさい！」 女性は蒼白な顔色をしていた。しかし、ルカは彼女の中にまだ反抗の光を見たのだろう。 「まだ納得できませんか？これは出来れば、言いたくはなかったんですがね・・・では聞きますが、あなたは死をどういうものだと思っているんですか？」 「・・・定義は色々あるわ」 「僕はそんなことを聞いているのではありませんよ。人間にとって、死とは何であるか、どういうものなのか、・・・」 「すべての終わりよ」 「そう、終わりですね。生あるものは死んでいく。死は根源的な恐怖です。なら、一度死を経験した人間が生き続けるということがどれほど辛いことか、考えたことがありますか？」 「あ・・・」 「仮死状態なんて生易しいものじゃない、完全な死を体験したんですよ？彼は何度その苦しみを味わえば楽になれるんですか？いつになれば、解放されるんですか？彼は生き返った瞬間から、次の死の恐怖と、再び生き返る恐怖に怯え続けなければならないんですよ。永遠に終わらない苦痛を彼に与えて喜んでいるですよ、あなたは！それが、愛情だというのですか！」 永遠に死が訪れないのではない。何度も何度も死は訪れる。ただそこで、終わらないだけだ。永遠の苦痛だけがそこにある。 「結局のところ、あなたは他者に対する愛を知らないんだ。あなたが愛したのは自分自身です。あなたが愛せるのは、自分だけなんだ」 力が抜けたように、がっくりと跪く女性。ルカはゆっくりと進み、「彼」------死体の寄せ集めを横たえた培養ケースに近付いた。 「みんな、眠りを覚まさせてしまいましたね・・・」 細い指がケースの維持スイッチをオフにしていく。最後のスイッチを切った時・・・蘇生体の顔に、安らいだ表情が浮かんだ------気がした。 「・・・おやすみなさい、今度こそ・・・」 |