|
「おや、春菜くん」 扉が突然開いたかと思うと、『判事』さまの声がした。はっと顔を上げると、透き通るような『判事』さまのお顔が私を見つめていた。 「お帰りなさいませ」 言いながら、反射的に時計を見る。針はとっくに五時を回っていた。 「急ぎの仕事が入っているのですか？」 「いえ、特に今日中に仕上げなければいけないものは・・・」 「このところ超過勤務が続いているから、たまには早く帰りなさい」 優しい笑顔でおっしゃるけれど、ご自分はいつも比較にならないほどの激務で・・・今日だって、本当は三時過ぎには戻ってこられるはずだったのに、『警察庁』や『大法廷』との打ち合わせでずるずると遅くなってしまっている。出廷していた午後いっぱいと、その準備のための時間も合わせると殆ど今日という日をご自分の仕事から離れて過ごしていらっしゃる。これからその遅れを取り戻すために残業するとなると、一体、いつまでかかってしまうのだろうか・・・。 「若葉は？」 代行執務官さまは『判事』さまが戻られるまでは当然、執務室にいらっしゃる。定時を過ぎて、自分の仕事が片付いていれば退庁しても構わないのだけれど、代行執務官さまは絶対に先に帰られることはない。それは『判事』さまもご存知だから、『判事』さまのお言葉は、代行執務官さまが在室していらっしゃるかどうかではなく、お仕事の状況を尋ねていらっしゃるということ。私は頷いて見せた。 「はい、若葉さまは『判事』さまのお戻りをお待ちでいらっしゃいます」 「そう。・・・じゃ、若葉に送ってもらうと良い」 「えっ、あの、」 「若葉、春菜くんを送って帰ってあげてくれないか」 『判事』さまは執務室の扉を開けて、さらっと言いつけてしまわれた。思わず顔が赤くなってしまう。 「え、あの、お帰りなさい・・・って、あの」 しどろもどろな代行執務官さまの声が執務室の中から聞こえてくる。 「たまには早く帰してあげないと。もう外は暗いから」 「あの、大丈夫です、私・・・」 「若葉も超勤続きだから」 『判事』さまはくすっと笑って執務室に入ってしまわれた。中からまだ何度かやり取りをしていらっしゃる声が聞こえてきたけれど、すぐに放り出されるようにして代行執務官さまがお部屋から出てこられた。 「お疲れ様、また明日」 『判事』さまはとても優しく、でもぴしゃっと扉を閉めてしまわれた。上着とコートを手に持った代行執務官さまが呆然と扉を見つめて・・・それから、どちらともなく顔を見合わせて、また、思わず顔を赤くしてしまった。二人揃って、一体何をしているんだろう、私たちって・・・・・ 「・・・えっと・・・その、食堂の前で待ってるから、着替えておいでよ」 「・・・はい」 食堂は一階にあって、よく違う部署の人間同士が帰りの待ち合わせをする場所に使われている。私は事務机の上を片付けながら、ふと、さっきの『判事』さまのいたずらっぽい笑顔を思い出した。 『判事』さま・・・やっぱり、私たちのこと、ご存知なのかしら・・・お付き合いしているだとか、そんなことは無いのだけれど、私は代行執務官さまが、その、好きだし、代行執務官さまも、そんな私の気持ちを迷惑に思って困っている、って感じもしないし・・・。 いやだ、また顔が赤くなってきたっ。 私は気持ちを落ち着かせるためにこっそりと深呼吸して、それから溜息を吐いた。 |