|
・・・闇のなかに浮かんでいる・・・体を動かそうとしても自由が利かない ・・・まばたきをしようとして、気付いた。闇の中にいるのではない、目が開 かないのだ。目蓋が重くて、動かない。そう判断したとたんに体中、針を刺さ れるような痛みが襲ってきた。体が現実に目覚めようとしている。あまりの苦 しさにうめき声をあげると、まるで地の底から響いてくる声のように、耳に飛 び込んできた。必死の思いで痛みを堪え、目を開けると・・・・・ 「あ、気が付いたかい」 薄暗い室内に、少女が立っていた。いや・・・少年だ。 目をさましたばかりの千歳の目には、髪の長い少女の姿のように映ったが、 声は完全に少年のものだ。 「あんた、危なかったぜ、息も止まりそうに弱くて、背中の傷からは血も出て こねーほど衰弱しててさ」 千歳の額に乗せられていたタオルを取り上げると、にっと笑って顔を覗き込 んだ。 「大分マシな顔色に戻ったな」 「君・・・は・・・？」 毒がまだ完全に抜け切らないのか、舌が痺れて上手く言葉を話せない。アル ファ・ゾーンの言葉だから、なおさらだ。 「バイト先から帰ってくる途中、倒れてるあんたを拾ったんだ。びっくりした ぜ、血塗れだったんだもんな」 千歳は訝し気に少年を見上げた。 なぜ、生きているのだ？ベラルークの毒にやられて、解毒剤を飲まずに助かっ たものはいない。千歳が手に握っていたのが解毒剤だと、どうしてわかったの だろう？ 「・・・これ、なにかの薬なんだろ？」 千歳の疑念を感じ取ったのか、少年が空になった小さなアンプルを差し出し た。 「あんたがしっかり握り締めてたから、飲ませりゃいいんだろうと思って」 「そうか・・・ありがとう」 もし持っているのが毒薬だったらどうするのだ、と思わないでもなかったが、 この少年の無茶な判断のおかげで実際命を落とさずにすんだのは、事実だ。千 歳は何気ない仕草でアンプルの容器を取り返した。たとえ小さなものでもベー タ・ゾーンのものをアルファ・ゾーンに残しておくことはなるべく避けるよう に、といわれている。どうせ見られたところで何の変哲もないアンプルや小道 具にしか見えないだろうが、念には念を入れておいたほうがいい。 「・・・ところであんたさ、何者？」 きたな。千歳は身構えた。まあ当然だろう、血塗れになって倒れていたのだ、 自分で考えてみてもこれ以上怪しい人間はいないと思う。別に血が青いわけで もないが、アルファ・ゾーンの人間と比べると、少々組織が違う。病院に担ぎ 込まれたりしていたら、大騒ぎになっただろう。とりあえず、病院にいかなく ても、この少年が納得するような理由をひねり出さなくてはならない。 「・・・刑事なんだ。実は、特別捜査班の一員でね、極秘捜査中だったんだ」 「へえ。じゃあ、背中の傷は、そのせい？」 「ああ・・・いま病院に行くわけにはいかないんだ。犯人を監視しておかなけ ればならないから・・・」 「本当かなあ」 「え・・・」 千歳は絶句した。少年がにやりと笑う。 「それだけの大怪我したのに、本部に連絡しようとか、そういう行動を起こそ うとしないの、変だな」 「それは、だから特別な捜査で・・・」 「いくら特別だからって言っても、その怪我で病院にも行けないような捜査の 仕方、警察はしないよ」 「・・・」 この少年、いくぶん幼さを残した顔立ちだが、見かけによらずかなり鋭いと ころがある。特別だの、極秘だのというと、人間はつい信じてしまいがちだ。 そのために、千歳はいつもこの「極秘捜査」を持ち出している。今まで千歳の 言葉を信じなかった人間はいない。いい歳をした大人や、身内であるはずの警 察官までがそんな夢物語のような、「警察のトップしかその存在を知らない特 別捜査班」の存在を信じた。 それが、この少年は千歳の言葉を一笑に伏した。いつもと全く勝手が違う相 手に、千歳は返す言葉を失ってしまった。 「あんたが気絶している間に、ちょっと持ってるもん探らせてもらったけど、 それらしいものは何も持ってなかったじゃん？」 「・・・」 「この機械、一体何なの？刑事がこんなもの、持ってるものなのかな？」 少年の手には携帯端末があった。持ち主の名前が刻まれているのは前に述べ たが、その文字は全くベータ・ゾーンのものだ。アルファ・ゾーンの人間が、 読めるどころか、こんな文字は存在しないということがすぐにばれてしまう。 全身にじっとりと冷汗がにじんでくる。ベストの状態でなら、腕ずくでも取 り返すが、今は体を起こすことさえ出来ない最悪の状態だ。もしこの少年が、 千歳を傷つけようとでも考えたなら・・・ 「もう一度訊くよ。あんた、何者？」 「・・・」 さらりと落ちてきた長い髪をかきあげながら、少年は笑った。 「あんた、人間？」 もう、ごまかせない。上手く丸め込めると思ったのに・・・千歳は目を閉じ、 ため息をつくと、真実を話すことに決めた。 「・・・そうだといえばそうだし、違うといえば違う」 自分はベータ・ゾーン、俗称「魔界」の住人であること、本来ならば決して 交わることのないはずの平行世界だが、人間個々のエネルギーはベータ・ゾー ンの方が強いが、絶対数の不足のため、辛うじてバランスを保っているという 不安定な状況のこと、勢いの強いアルファ・ゾーンにベータ・ゾーンが引き寄 せられている現状のこと。そのため、不安定なベータ・ゾーンの人間は精神的 にもバランスを崩しやすく、犯罪発生率が異様に高いこと、また一部の例外を のぞいてベータ・ゾーンの人間のみが移界能力を持ったこと、そしてその能力 を使ってアルファ・ゾーンに逃亡する犯罪者がいること。 「僕は、アルファ・ゾーンへ逃げ込んだ犯罪者を追って捕らえる『トレーサー』 ・・・まあ、刑事っていうのかな・・・こっちじゃ」 「ふ〜ん・・・何だかＳＦ小説みたいな話だけど」 少年は端末を千歳に返してくれた。 「それに刻み付けてある文字、どう見たって「文字」には見えないし、材質と かもね、・・・地上にあるものには見えないもんな。さっきのアンプルも、変 な文字が書いてあったし」 「・・・鋭いね」 「そうでもないよ、おれ、頭わりーもん」 少年はくすりと笑うと、肩をすくめた。 「俺の頭じゃ行ける大学ねーし、勉強嫌いだしさ・・・だから俺は、フリーター になっちまったってわけ。あ、わかる？」 「ああ、大丈夫、理解できるよ。・・・だけど君、観察力はあるし、飲込みも 早いし、頭のキレはいいみたいだから」 「ちょっと違うんだけどね・・・」 「え？」 「いや、何でもない。ところであんた、なんて名前？」 「あ、僕は千歳」 「ちとせ？・・・『千歳』なに？」 「千歳、だけ。僕らには姓はないんだ。姓を持つ種族もいるけど」 千歳は微笑んだ。この辺りは、平行世界とはいえどアルファ・ゾーンとは違 うのである。 「ふーん、おれたちと反対なんだな。俺は宮内友紀。去年高校を出たから、い ま十九歳か」 「僕は今年で二十八歳になるのかな。・・・スクールを出て、もう十年になる んだ」 「え、あんたも高卒？」 少年------友紀が意外そうに尋ねた。 「俺、あんたってバリバリのエリートだと思ったけどな」 「まさか、『トレーサー』にエリートなんていやしないよ。まして、『超界外 勤』じゃね」 「へー・・・」 「えーっと、『日本』・・・じゃ、巡査にあたるのかな？尤も、機構が違うか ら、簡単に当てはめることは出来ないけれど」 「ふうん。で、あんたの追っ掛けてるやつって、どんな奴なの？」 ぎりぎりの死の淵から戻ってきた安堵感か、友紀に素性を隠すことに神経を 使っていたからか、今までクルズのことをすっかり忘れていた千歳ははっと気 付き、思わず体を起こしかけた。しかし、毒が抜けてほとんど時間もたってい ないし、背中にも大きな切創を負った体では、かなり無謀な運動だったようだ。 激痛のため、悲鳴をあげることも出来ず、体に掛けられた布団を握り締めるの が精一杯だった。 「おいおい、無茶すんなよ。背中の傷、けっこー深かったぜ」 「こんなところで寝ている場合じゃないんだ・・・こうしている間にも、あい つは人を殺し続ける・・・！」 「・・・けど、今のあんたじゃ、ガキ相手でもやられちまうぜ」 友紀は正しい。自分の体さえろくに自由に動かせないのに、強力犯のクルズ 相手では一瞬もあれば、二度ほど嬲り殺されてしまうだろう。だが、このまま 呑気に寝ているわけにもいかない・・・強烈なジレンマに、千歳は苛立たしげ に、唯一自由になる顔をしかめた。 「・・・そこまでして、犯人をとっ捕まえる必要、あんのかな」 「え？」 「犯罪者だって、生まれたときから犯罪者だったわけじゃねーじゃん？止むに 止まれぬ事情とか、あるだろ」 「そんな、犯罪者の事情なんて・・・」 「犯罪者は人間でもないって？ガキの頃から、そういう境遇にいた奴なんて、 周囲の人間から白眼視されてんじゃん？ろくな仕事につけなくて、ドロボーに なるより他に生きていく道はない、って奴はどうすりゃいいんだ？」 「たしかに、犯罪者だって人間だ、どうなってもいいなんて思っちゃいない。 だけど、・・・突然、何の罪もない自分の子供を殺された親の気持ちはどうな るんだ？大切な家族を殺された人の気持ちは？」 「・・・」 「・・・人間は弱いから・・・一人では生きていけない。だから集団を作って、 協力して生きていくんだ。他人と一緒に生きていく以上、最低限のルールとい うものがどうしても必要なんだ。それを守らなければ、疎外されても仕方ない ところって、あるんだよ」 「理屈じゃ、どうにもなんねーことも、あるんだぜ」 千歳は黙り、友紀を見つめた。まだ十九歳だという少年。あどけなさを残す 顔には昏い影が落ちている。まるで、人生に疲れ果てた、中年の人間のように、 世間の辛酸、不条理を味わい尽くしたかのような表情。なぜ、こんな表情が出 来るのだろう？ 「ん・・・確かに、理屈だけじゃ、社会は機能しないけれどね・・・君、ご両 親は？」 「は？ああ、俺は一人暮らしだから、あんたひとりくらい世話してやれるさ。 親父とオフクロは田舎さ」 「ふーん・・・きみ、『判事』と似たようなこと言うから、ひょっとしたら、 と思ったけど・・・」 「判事って、裁判官の？」 「いや、違うんだ。『法廷』に、治安課があってね。そこの責任者を『判事』っ て呼んでいるんだ。何でも『判事』はご両親を強盗に殺されていてね、ずいぶ ん苦労したらしいんだ」 治安課では、特級にランキングされた超・極悪犯の抹殺処分の決定および 『ガーディアン』の任命、指令一切を取り仕切っている。治安維持のためとは 言いながらも、その仕事内容は「超法規」的手段を用いる、要するにかなり汚 い手を使うことも辞さないことが必要となるため、司法官たちの間では鼻つま みものの役職なのだが、・・・三年前新しく任官した『判事』は法律大学をトッ プで出た超エリートだが、なぜか自ら望んで『治安判事』のポストを選んだら しい。 「でも、そのひとは復讐のために、とかいうんじゃなくって、もう自分のよう な目に遭う人がいなくて済む社会にしたい、と考えてのことらしいんだ」 同じような考え方の人間が、世界は違えども捜査当局の側にもいるというこ とを知って、感動（というのはオーバーだが）するかと思いきや、友紀の反応 はというと、つまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。 「ま、どっちにしてもあんたはしばらく動けないよ」 「・・・ああ」 千歳はもどかしげに唇を噛んだ。移界直後のこととはいえ、隙さえ作らなけ ればクルズを捕縛することも出来ただろうに・・・おそらく、クルズは追跡者 を葬り去ったとみて、心の赴くままに人々を傷つけ、殺し続けるだろう。ベー タ・ゾーンの人間はアルファ・ゾーンへ移界すると、元々の、いわゆる超能力 者だけでなく、ベータ・ゾーンにいる時でさえ使うことの出来なかった、不可 思議な能力を使えるようになる者もいる。もし、クルズが特殊能力を使うこと が出来る人間であったなら・・・。 そんな千歳の焦りを感じたのだろう、友紀はじっと千歳を見つめていたが、 やがて、にっと悪戯っぽい笑いを浮かべた。 「そんなに焦ったって仕方ないよ。俺もあんたに協力してやるよ、まずは体を 治すことを考えな」 「しかし、ヤツを追うことは危険・・・」 「何もあんたと一緒になってそいつを追っ掛けるなんて言ってやしないよ。あ んた、この街のことよく知らないだろ？そういうヤツが行きそうな場所とか、 案内する程度のことしか出来ないけど」 「友紀・・・」 「へへ、俺、何かあんたがちょっと、気に入ったみたい」 友紀はくすりと笑い、肩をすくめた。 「俺はオマワリとか、あんまり好きじゃなかったんだけど・・・ちょっと、見直した」 「・・・」 「テメーの体を張って、他人を守るヤツって、いるんだな」 「・・・きっと、こっちの世界の警官だって、そんな人はたくさんいるさ」 「そうかな・・・うん、そうかもね」 にっこりと笑う友紀。なぜか、その笑顔は妙に幼く見えた。 |