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「世界」は二つ、存在する。 平行世界といわれる「世界」、アルファ・ゾーンとベータ・ゾーンはその名 の通り、永遠に接近することはない、はずだった。しかし、アルファ・ゾーン の方が質量が大きいらしく、ベータ・ゾーンがアルファ・ゾーンへ引き寄せら れつつある。そのせいか、移界能力があるものはベータ・ゾーンでも数少ない が、アルファ・ゾーンの人間では皆無だった。移界能力がなければ異界の存在 を知ることも出来ない。 二つの世界の住人は一見すれば全く同じ「人間」、角が生えているわけでも なんでもないのだが、異界へ侵入した影響なのか「平行世界」とはいっても成 分組成が違うのか、いわゆる超能力のような力を使えるようになるものもいる ところから、平行世界の存在を知らないアルファ・ゾーンの住人には、境界を 越えて侵入してきたベータ・ゾーンの住人が「魔界の住人」とでも言うような 存在に思えるらしい。そのため、アルファ・ゾーンの人間のみで組織されてい る連絡機関は、『人界庁』と名付けられている。 『人界庁』は、ベータ・ゾーンから侵入してきた犯罪者を追う『トレーサー』 を情報面でバックアップする、全く世人に知られることもない機関である。も ちろんベータ・ゾーンの存在を知っているのは「人間界」の中でもほんの一握 りの人間---『人界庁』---の人間のみである。 「・・・ってて・・・」 アルファ・ゾーンへの異界をはたした千歳は、眉を寄せて腰を軽くたたいた。 交わらないはずの二つの世界の小さな接点から、異界へ移行するのはある種の 特殊能力でありそれにともない精神力・体力を消耗する。移界を果たした千歳 も、体の節々の痛みを堪えながら、まずターゲットの足取りを掴むため、『人 界庁』と連絡を取ろうとした。 「・・・ニオウぞ・・・」 突然、背後から押し殺した声がした。アルファ・ゾーンの人間に見つからな いよう、わざと廃屋を選んでその中に移界を果たしたのに・・・？！ 考えるより先に体が反応し、その場から飛びすさった。しかし、一瞬の気の 緩みがあったようだ。肩から背中にかけて、焼けるような痛みが走った。 「ぐ・・・！」 「キサマ、『トレーサー』だなぁ・・・匂うぞ」 なんとか体勢をたてなおし、敵と向き合うと、相手は------コミュート＝ク ルズは手に刃渡り五十センチもありそうな刀をもち、刃についた血を美味そう に舐め取った。 「ベータ・ゾーンのニオイがぷんぷんするぞ」 「・・・コミュート＝クルズだな？」 「だったらどうする？」 「ベータ・ゾーンへ強制連行する」 「その体で、出来るもんなら、な」 「なに？」 ずいぶん舐められたものだ。この程度の怪我など、怪我のうちにも入らない ・・・そう思ったのも束の間、頭頂から爪先まで、痺れるような激痛が走り、 立っていられないほどの目眩が千歳を襲った。 「うっ・・・」 「こいつの刃には、ベラルークの毒袋から取った毒が塗り付けてあるんだよ。 舐めただけじゃどうにもならねェが、血管のなかに入りゃあ、イチコロよ」 ベータ・ゾーンに棲息する蠍の一種、ベラルークの毒はまず獲物の運動神経 および三半規管を侵し、体の自由を奪う。そこから徐々に、内臓を一つ一つ、 機能を阻害していき、最後に脳の呼吸を阻害して死にいたらしめる。捕らえた エサを新鮮なまま長持ちさせるため、こうして少しずつ機能不全に陥らせるの だが、・・・犠牲者を長時間苦しめる、あまりに残虐な性質のため、人間相手 はもちろん、動物にさえ使用することをかたく禁じている。その毒を、いとも 簡単に『トレーサー』に向けて使用するクルズ。なぜ、いきなりハイ・レベル にランキングされたのか、わかった気がした。 だが、いつまでもそんなことで感心している場合ではない。まだ体の自由が 利くうちにここから脱出し、解毒薬を飲まなくては。 「どうやら効いてきたようだなァ」 第一段階、運動神経を阻害したとみたクルズが、千歳に近寄ってきた。中か らの毒による苦痛と、外部からの攻撃による苦痛、双方から嬲ろうというのだ。 他人の苦痛を無上の喜びとする、陰湿な性情の持ち主だった。 「どうやって料理してやろうか？」 クルズの手が千歳の髪を掴む。と同時に、千歳の手に握られた銃が火を噴い た。 「うわっ・・・この野郎」 痺れる手で握った銃はかなり見当違いな方向に弾丸を発射したが、クルズを ひるませることは出来たようだ。一瞬の隙を突き、震える体を無理矢理引きず り、窓から外へ飛び降りた。あとを追おうとしたクルズだが、窓から下を覗き、 眉を寄せて鋭く舌打ちをした。あれだけの傷と猛毒を浴び、しかもここは三階 だというのに千歳は素早く雲隠れし、気配をも断ってしまったようだ。ベータ・ ゾーンの人間特有の気配が感じられない。 「ちっ・・・若造だと見てしくじったか」 だが、『トレーサー』が------犯罪者の恐怖の的である『トレーサー』が、 手も無く自分の前から、逃げ去ったのだ。あの様子では、逃げるだけで精一杯、 うまくいけば解毒剤を飲むまもなくあの世へ行ってしまったことだろう。あの、 『トレーサー』を撃退したのだ。もう恐いものはない。 「へ・・・へへへ、何が『トレーサー』だ、俺様にかなうものはいねえ」 ただでさえ締まりのない顔に、さらに締まりのない毒々しい笑みが広がった。 「ざまあみやがれ、もう恐いモンなんかねえぞ！」 咄嗟に窓を飛び出し、身を隠すだけで全精力を使い果してしまった千歳は、 解毒剤を口へ運ぶことも出来ないまま、路地に横たわっていた。視界が狭くな り、暗くなる。苦痛に苛まれる肉体と、朦朧とする精神が分離してしまったよ うな奇妙な浮遊感。 やがて千歳の意識は完全に、闇に沈んでしまった。 そして、そこに・・・・・ |