平行世界。 「この世」がたった一つのものではなく、二つ以上存在するという説がある。 決して交わることのない、二つの世界。 だがもし、平行世界が交わり、接点をもったとしたら・・・？ 街は人間でごった返している。家族揃ってデパートに繰り出し、団欒の場を もつ者、友人や恋人と街を歩き、自分たちの世界を作って楽しんでいるもの。 明るい屈託のない笑顔で、楽しげに先を急ぐ。だが、そこには暗い顔の者たち も歩いている。恋人に振られたのか、親に叱られたのか、仕事で面白くないこ とがあったのか・・・そうではない。彼らは、「裏の世界を征く者」たちであ る。 違法な取引、品物のやりとりから、傷害、強盗、強姦、殺人・・・さまざ まな犯罪に手を染め、闇の世界に生きる者たち。この世界のほぼ二割から、三 割近い人間が『中級』の犯罪者であるという。当局はもちろん、これらの犯罪 者を一掃し、治安を回復させようと必死の努力をしているが、世界そのものが 「バランス」を崩しているこの世では、犯罪発生率を一日当たり百件前後に押 さえるのが精一杯だった。 「ふあ・・・」 平凡な雰囲気の青年が、大きなあくびをしたあと、退屈そうな表情でベンチ にもたれ掛かった。カオは平均以上、背もそこそこ、服のセンスもまあまあ、 趣味がいい。普通なら手厳しいお嬢サマ方も、平均以上の点数をつけてくれる はずである。それなのに、全然ぱっとしないし、持っているはずの良い点も悪 い点も、全てが目立つ事無く周囲に埋没してしまっている。彼が営業マンだっ たのなら、悲劇であったろう。そこにいるかいないか、存在感が全くないのだ から。だが、彼は「目立たない人間」なのではなく、「自分を目立たせないよ うに行動する人間」なのである。職業は『トレーサー』、勤務範囲は『超界外 勤』。『アルファ・ゾーン』へ翔び、潜伏する犯罪者を追い、捕えることがこ の青年の任務である。 「ろくなもんじゃねーよなあ・・・いつ呼び出しがかかるかわかんないなんて、 これじゃ出勤中も変わんないよ」 ぶつくさ文句を言いながら、忌ま忌ましげに携帯端末をひっぱりだし、眺め る。警察庁本部に直通しており、やっかいな命令を伝えてくるのと引き替えに、 彼の命の危険を通報し、仲間に連絡して救助要請をしてくれる、命綱とも言え る端末である。忌ま忌ましいといって、捨ててしまうわけにもいかない代物だ。 彼の精神的・肉体的情報を絶えず管理し、極度の異常を認めると本部へ連絡を 届けるというサポート・システムを採用しているため、直接体に接触させてお かなくても良い、という利点がある。 端末には持ち主の名前が刻まれていた。 二文字だけ、“千歳”と。 「・・・まあ、仕方ないよな」 青年---千歳は空を振り仰いだ。ビルの壁面に、大きな電光掲示板が取り付 けられている。その掲示板には、今日現在の犯罪発生件数と、当月の犯罪件数 が表示されており、こうして千歳が掲示板を見上げている間にも、犯罪の犠牲 になった死者の数がひとり、またひとりと増えてゆく。 「こんなペースじゃな・・・」 千歳は現在三級の『トレーサー』である。エリートではない、たたき上げの 『トレーサー』としてはなかなか優秀な方だ。「犯罪社会」などと称されて久 しいこの世の中で警官になろうというくらいだ、人より正義感は強いほうだが、 休暇を返上し、眉を吊り上げて犯罪者を追おうというほどの熱血警官でもない。 肉体的には非番だが、精神的にはつながれた鎖が長くなっただけのような休日 に、ぼやきながら街をぶらつこうと腰を上げたときである。 端末が、嫌な音をたてて本部からの通信を受信したことを伝えてきた。 「ちぇっ、やっぱり・・・」 スイッチを入れると、緊急通信がシグナルと一緒に目に飛び込んできた。 『ＪＰＸ−１８３３、“千歳”三等巡察官、ベータ・ゾーンからアルファ・ゾー ンへの移界捜査を要請します』 「・・・相手は？」 千歳は警察庁通信官にしか判別できない言語で訊き返した。超界外勤の『ト レーサー』が非番の時に呼び出されることは全くありえないことではないが、 その場合はいつもパンク状態の内界外勤、つまりベータ・ゾーン内にとどまっ ている犯罪者の取り締まりに駆り出されるだけである。もともとアルファ・ゾー ンへ翔ぶことの出来る犯罪者が少ないということもあるが、休養を取っている 人間を働かせるのだから、体力的にも精神的にも消耗する移界捜査を要請する ことはまずない。 それが・・・？ 『コミュート＝クルズ、強盗殺人、強姦致死、幼児連続殺人で指名手配中。 『高級』にランキングされています』 「クルズ・・・だって?!」 『アルファ・ゾーンにおいて女性一人、十五歳相当の男性三人を殺害しています。条件付で の射殺許可。アルファ・ゾーンの住人に危害を加えない状況で射殺すること、 我々ベータ・ゾーンの人間の存在を可能な限り認知させないこと、以上二件で す』 「・・・了解、ただちにアルファ・ゾーンへ移行する」 『幸運を祈ります』 千歳は携帯端末をポケットにしまうと、ほっとため息をついた。道理で、非 番の千歳が呼び出されたはずだ。コミュート＝クルズというと最近、手荒な手 口で荒稼ぎをし、一気にハイ・レベルにランキングされている。このままクル ズを野放しにしておくと、スペシャリスト---特級---無条件射殺という条件 で追われる極悪犯扱いになるのも時間の問題だ。そんな人間が、よりによって 「人間界」へ翔んだとは。人目を避けるように路地に入っていった千歳。彼は そのまま、戻ってこなかった。 |