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右肩に、まるで焼け火箸でも突っ込まれたようだ。焼け付くような痛みと一 緒に、なま暖かいものが流れ落ちていく感覚。シャツがべたりと貼り付いてい るのが不愉快だった。 「さて、困ったことをしてくれましたねえ。どうしましょうかねえ？」 まるで困っていない口調で男が呟くのが聞こえてくる。法服の一部である白 いマフラーで翡翠の両手を縛り上げてから、男は翡翠の顔をのぞき込んだ。 「傷が痛みますか？でもまあ、急所は外しましたし、出血多量で死ぬようなこ とはないと思いますがね」 男の言うとおり、傷は生命を脅かすほどのものではなかった。とはいえ、痛 みをかんじないわけでは決してないし、両手の自由を奪われていなかったとし ても、とても腕力で立ち向かおうなどという気にはなれない程度には、重傷だっ た。 「こんなところに立てこもって・・・何を考えている？」 「もちろん、うまく逃げ出すことを、ですよ。そろそろ要求を聞きに来てくれ るころかな？」 男がくすりと笑ったとき、タイミング良く廊下からスピーカーを通して、警 備員の怒鳴り声が聞こえてきた。 「周囲は完全に包囲されている！治安『判事』を解放して、いますぐ出て来る んだ！」 「・・・やかましい！『判事』を殺されたくなければ、こちらの要求通りにし やがれ！」 思わず、翡翠が目を丸くしたほど、男の声は甲高く、そして荒々しい下町訛 りを含んだものだった。翡翠の様子に気づいた男はいたずらっぽい目でにやり と笑って見せた。 「『イノセント』のメンバーを全員、釈放しろ！もちろん裁判中のメンバーも だ！」 「なんだと・・・貴様、『イノセント』のメンバーだな？！」 「言うとおりにするのかしねえのか、はっきりしろ！」 いきなりとんでもない要求をつきつけられ、即答できるような人間はいない。 黙り込んだ警備員たちの様子に、男はくすりと笑った。 「・・・『イノセント』に罪をなすりつけるつもりだな」 「まあ、別に『イノセント』でなくても良かったんですがね。『シビリアン』 はあなたに壊滅状態に追いつめられてしまいましたからね。咄嗟に思いついた のが『イノセント』だったというだけのことですが」 かけていた眼鏡を外し、なでつけていた髪を煩わしそうにくしゃりとかき回 して乱す。その様子を見つめていた翡翠は、静かな声で言った。 「思い出したよ。どこのファミリーにも属さない、一匹狼の情報操作屋として 名を売っている男を。一度狙われたら、確実にデータを破壊、あるいは消滅さ れてしまうと恐れられている、『情報屋』来栖」 「おや。光栄ですね、治安『判事』にまで名前が売れていたなんてね」 男------来栖は肩をすくめると、大して嬉しくもなさそうに呟いた。 「あのとき、あなたさえこの部屋へ入ってこなければ、『法廷』資料室さえ例 外ではない、という宣伝文句が簡単に付け加えられたはずだったのに」 「『法廷』のデータベースに侵入するつもりだったのか」 「ルートはもう確立させてあるんですよ。ただ、電子データは壊すことはでき ても、書類資料までは遠隔操作でデリートすることはできませんからね」 「自ら忍び込んだのが運の尽きというわけだ」 「いいえ」 来栖は静かに首を振った。 「私は確かに頭脳労働専門で、荒事はあまり得意ではないのですがね。できな いというわけでもないのですよ」 「『シビリアン』出身は伊達ではないと言うこと？」 肩に鉛玉をぶち込まれた腹いせと言うわけではないが、来栖が驚きのあまり に拳銃を取り落としそうになっているのを見て、翡翠は少しだけ溜飲を下げた。 「・・・何故それを・・・」 「さあ、何故でしょうね」 しばらく、穴の開くほど翡翠の顔を睨み付けていた来栖だが、やがてほっと ため息をついた。 「やはり、このままあなたを帰すわけにはいかないようだ」 事件の当事者すら、リネスの思惑とは全く無関係のところで動いている、そ れどころかリネスの名すら知らないままの者すらいる事件を互いに関連づけた 読みの深さと、抜きんでた調査能力。いくら来栖のような情報屋が痕跡をもみ 消して回ったところで、無意味だ。今日、明日は無事でいられたとしても、そ の次の日、一週間後、一ヶ月後も口を拭ったままでいられるとは限らない。 「治安『判事』、あなたは『特級』以外の犯罪者にとっても、脅威となる・・・ 資料などより、あなた自身を抹消してしまわなければならないようだ」 「いまこの場はそれで良いとしても、いつまでも『警察庁』や『法廷』から逃 げ続けることなどできはしない」 「心配ご無用、私は情報操作そのものが商売ですよ。自分の足跡なんぞ、いく らでも消すことができる。ほら」 ほら、といってぺろりと変装用のテープをはがすと、そこには敏腕弁護士然 とした顔はどこかへ消えていた。代わりに、精悍な、だがどこか悪ガキのよう な悪戯っぽい顔があった。 「用心のために変装しておいたのが役に立ちましたよ。この顔はどこの誰にも 覚えられていませんからね。あなたを人質にして、挙げ句の果てに殺して逃亡 した男は、エリート然とした神経質そうな容貌の・・・そうそう、甲高い声の、 下町訛りのある男」 「声や訛りまで変えるとは、恐れ入るね」 「ま、情報屋としてはそれくらい出来て当然ですね」 来栖は銃口をあげ、翡翠の胸にぴたりと狙いを定めた。 「あなたの言うとおり、『シビリアン』出身の私にとって、身動きできない標 的の心臓を打ち抜くくらいは朝飯前です。せめて、苦しまないようにして差し 上げますよ」 「どうやってここから逃げ出すつもりなんだ」 「なに、二発、三発と続く銃声を聞いてもじっとしていられるほど、警備員た ちも無神経ではないでしょう。ここへ突入して来るに決まっている。そのどさ くさに紛れて逃げますから、どうぞご心配なく」 どうせ、警備員に化けるだけの準備はできているのだろう。敵ながら、準備 の良さも、そして度胸の良さをも認めないわけには行かない。翡翠を殺した後、 堂々と『法廷』庁舎から出て行くつもりなのだろう。 引き金にかかった男の指に、力がこめられる・・・・・ 「あ」 いきなりドアが開いた。そのあと、とってつけたようなノックの音が三回。 「・・・あ、じゃないだろ。ノックはドアを開ける前にしなさいと言ってるじゃ ないか」 「トイレじゃ、あける前にしてる」 「僕の居るところはトイレ以下かい」 こんな状況で、ノックどころじゃないだろう、と思わないではなかったけれ ど。異様に緊迫した状況のところへいきなり顔を出した少年に、何か言わなけ れば来栖が発砲してしまうという危惧があったのだ。 「うるせーな。ノックなんか、どーでもいいだろ」 言い訳をしたくせに、そんなことは意にも介さず、少年------孔雀はぱたり とドアを閉めると来栖に言った。 「丁稚から話は聞いた。翡翠を返せ」 「・・・君は一体何者だ。ただの子供じゃないな」 「孔雀。・・・『冥王』孔雀と言えばわかるか、来栖？」 驚愕に目を見開き、呆然と孔雀を見つめる。『冥王』孔雀の姿を目の当たり にした驚きももちろんあるが、何故自分の名を知っているのだろう、という驚 きもあった。確かに、来栖が元いた『シビリアン』には孔雀も、孔雀の両親も 居たが、来栖と彼らの接点は殆ど皆無と言っても良い状態だった。なのに、な ぜ孔雀が自分を知っているのだ？ 「なぜ、私を・・・」 「情報屋ってのはお前一人の商売じゃないってことさ」 「さすがは、『冥王』・・・治安『判事』の飼い犬には収まらないということ か」 「そんなことはどうでもいい。翡翠を返せ」 「治安『判事』になぜ拘る？」 「そんなことはお前には関係ない」 「治安『判事』が誰に変わっても、『ガーディアン』には関係がないだろう。 なぜ、危険を冒してまで助けようとする」 孔雀は不愉快そうに眉を寄せた。 「うるせえヤツだな。そんなこと、それこそお前には関係ないだろ。俺はそい つに用があるんだ」 「残念だが、そう簡単に返すわけにはいかない。私にだって、用があるのだか ら」 「タダで返せとは言わねーよ」 孔雀はポケットから賽子を二つ、取り出した。 「ここに賽子が二つある。これを振って、七以上の目がでたら、お前の勝ち、 六以下なら俺の勝ち。俺が勝ったら翡翠を返せ」 「私が勝てば？」 「お前の下僕になってやる」 「なんだって・・・！」 思わず、翡翠も来栖と声をそろえて叫んでしまった。 治安『判事』が恐れられているのは、『ガーディアン』たちを部下として使 い、情け容赦なく犯罪を取り締まるその手腕があまりにも優れているからだ。 だが、それ以上に、『冥王』孔雀を従えているという事実が、犯罪者だけでは なく、善良な一般市民をも恐れさせているというのが実際のところだ。 脳内に監察爆弾を埋め込まれ、首輪をつけられた状態でも尚、人々を恐怖に 陥れる『冥王』の名。その『冥王』を事もあろうに「下僕」にするなど、とて も考えられないことだ。 「・・・二つの賽で七以上の目だと？一体どのくらいの確率だか、わかって言っ ているのか？」 「こっちは人質取られてんだ。圧倒的にこっちが不利なときに、相手に同じテー ブルにつかせようと思ったら、こっちが思い切った大博打に出るよりほかねえ だろうがよ」 「勝率５／１２の博打でも、か」 「やるのかやらねえのか、どっちなんだ」 孔雀は賽子と壷を手に、いらいらとした口調で言った。ちらりと来栖から視 線を外す。その視線の先を追った来栖は、微かに微笑んだ。孔雀が見つめてい る翡翠の右肩は、法服の上からでもはっきりとわかるほど出血でぐっしょりと 濡れそぼっていた。 「いいだろう、その勝負、受けて立とう」 「勝負は一回だ」 指の間に賽を挟んだ孔雀は、気負いも感じさせず来栖の前までゆっくりと歩 いてきた。何のためらいもなく鮮やかな手つきで壷の中に賽を振り入れ、勢い 良く床に壷を伏せる。冷静を通り越した、無謀とも言える度胸の良さに、来栖 は内心で感嘆せざるを得なかった。全く、たとえ治安『判事』といえども、一 介の飼い犬などにしておくには惜しい人物だ。 澄み切った瞳を来栖に向けて、孔雀は言った。 「今なら、まだ間に合うぜ。この勝負、続けるか？さっさと投降した方が良い んじゃねえのか」 「それはこちらの科白だよ。本当に、良いのかな？私などの部下に、甘んじて いられるのか、『冥王』が？」 「俺は今まで負けたことなんかねえよ。これからも、絶対にな」 自らに対する恐ろしいほどの自負と、自信。有利なのは自分のはずなのに、 来栖は目の前の少年に圧倒されるのを禁じ得なかった。 「では、これが『冥王』の初めての敗北となるわけだ」 深く、蒼い瞳を見つめ返して、来栖は叫んだ。 「後悔するな、『冥王』・・・勝負だ！」 孔雀の手が、壷をあげた。 「あっ・・・こ、これは・・・！」 「目の合計は六。俺の勝ちだな」 二つあった賽のうち、一つの目は六がでている。そしてもう一つは・・・ど の面も真っ白で、傷一つついていない。 「いつの間に、すりかえたんだ・・・確かに、振ったときは普通の賽子だった のに・・・！」 「自分が負けるはずがないと思って、お前は注意散漫だったんだ。俺が壷を振 るのを、ちゃんと見ていなかったから気づかなかったのさ」 とんでもないことを言い出した孔雀を止めることすら出来ず、ただ見守るし か出来なかった翡翠が必死で見ていても、それでも気づくことはできなかった のだが。孔雀は呆然としている男を見下ろした。 「確かに俺が不利だったさ、普通の確率論からいけば、な。でも、お前は確率 論に溺れて、俺が何をしようとしているか、考えもしなかった。その時点で、 お前はすでに負けていたんだ」 「ふ・・・確かに、俺の負けだ・・・まさか、こんな手を使うなんて、思いも しなかったよ・・・」 孔雀が扉を開けると、警備員たちが、どっと資料室へなだれ込んできた。抵 抗らしい抵抗もみせず、連行されていく来栖を見つめていたが、やがて翡翠の 方へ歩み寄ってきた。黙って、縛り上げられていた翡翠の両手のマフラーを解 く。血を吸って、真っ赤になっているのを見て、眉を寄せた。 「・・・血は落ち難いのに」 自分が洗う気もないくせに。翡翠は笑いたかったが、うめき声しか出せなかっ た。 「死にそうな声出すなよ。・・・もう大丈夫だから」 そう言って、手を握ってくれた孔雀の手は、失血で体温が下がった翡翠には とても暖かかった。 |