ダイスでポン   1









 『法廷』庁舎は、大きく分けて二つのセクションからなっている。
 一つは、罪を犯し、逮捕された犯罪被疑者が裁判を受けるための『審判場』 フロアで、『法廷』庁舎の一、二階を占めている。『判事』や検察官、弁護士、 被告人が使用する部分は関係者以外立入禁止になっているが、他の部分は比較 的自由に出入りすることができる。もちろん、持ち物チェックや金属探知器な どをつかった厳重な身体検査を受けなければならないが。
 そして、もう一つが『法廷』フロアである。『法廷』フロアにはいるために は、事前に立ち入りを許可された人間である証明のカードを通さなければなら ない。たとえ顔見知りであっても、カードがなければ『法廷』に入ることは許 されず、うっかりカードを忘れた『大判事』補がカードを取りに帰らされたと いう噂もあるほど、人物チェックが厳しいのだ。
 大抵、『法廷』に用事があって入ってくるのは『警察庁』関係の人間か、法 曹関係の人間ばかりである。『判事』たちの堕落、腐敗、癒着を防ぐために、 『判事』にはありとあらゆる行動制限が課せられているため、企業などの人間 は『判事』との接触が難しい上に、直接金品を渡すという方法以外に「お近づ き」になる方法がない。だが、『判事』に賄賂など渡せば、その場で財産すべ てを没収されてしまう危険もあるだけに、滅多なことでは『法廷』に近づきた くない、というのが一般的な感覚なのである。



 その男は、銀縁の眼鏡をかけて、いかにも頭の切れる弁護士、といった雰囲 気を醸し出していた。外は真夏の太陽の日差しが容赦なく照りつけているが、 男は濃紺のスーツを隙もなくきっちりと着こなし、額には汗一つ浮かべてはい ない。上着の内ポケットからカードを取り出し、警備員に差し出す仕草も落ち 着いたものだ。
「広陵法律事務所の居空弁護士ですね。どうぞ」
「ありがとう」
 居空弁護士はカードを受け取ると、長い廊下を通って、階段へと消えた。警 備員たちは、たったいま自分の横を通っていったのが、あの有名かつ大規模、 層の厚いスタッフを誇る広陵法律事務所の所属弁護士だと信じて疑っていなかっ た。

「さて」
 居空弁護士はデータ課の資料倉庫に入り込んだ。もちろん、入室前にはさき ほどの身元証明カードをオートロックシステムに差し込んで、ガードシステム を黙らせてある。
 現在、資料倉庫は殆ど使われることはない。データはすべて電子データ化さ れ、『法廷』で端末を叩けば必要なものはすべて引き出せる。資料倉庫に保存 されているものは、書類形式で提出された証拠資料や保存期間を満了していな い電子データ化以前の資料と、万一のためのバックアップメディアだけだった。 それでもかなりの量があり、広い倉庫には床から天井まで、すべての棚にぎっ しりと書類が整理して詰め込まれてあった。
「第三『審判場』の資料は・・・と」
 スーツの内ポケットから小型携帯端末を取り出し、検索をかける。使用者ア イディーとパスワードを尋ねてきたが、居空弁護士は何故かそれらを入力しよ うとはせず、別ルートでシステム内に入り込み、目的の資料の保管場所を探し 当てた。
「い号三十五群第八架、か」
 巨大な書架の間をくぐり抜け、探していた書架を見つけだす。ファイルの背 表紙を追っていた目が、すっと細められる。
「あった」
 細い指がファイルの背表紙にかけられる。ぎっしり詰められた棚からいくら かの抵抗を示しながらも、ファイルが抜き出されると、弁護士は中にざっと目 を通した。 一番上のページには、数年前に発生した麻薬密売事件の資料がファ イルされていた。ぱらぱらとページをめくると、事件としては全く別のものが 数件一緒にまとめてファイルされていた。
 軽く寄せられていた弁護士の眉が、ページをめくるごとに一層強く寄せられ ていく。
 事件の種類、性質、発生場所、事件関係者、すべてがバラバラで何の関係も ないものが、無秩序に寄せ集められていた。データ課の管理体制の杜撰さは恐 ろしくひどいものである。・・・ように見える。
「さすがは『法廷』、お見通しというわけかな」
 全く関係のない事件の数々・・・だが、そのバックには同じ人間の陰が見え 隠れする。いや、見るものが見れば、その人間の関与が疑われる、といった程 度でしかないのだが、中には、ごくわずかの人間を除いて、関係者でさえ関連 のない事件だと思っているものさえ含まれている。
 ファイルの一番上に挟まれている、「最終加除履歴」を何気なく目にした弁 護士の目が、大きく見開かれた。
「治安『判事』か・・・なるほど、敵に回すと恐ろしいというのは何も『特級』 だけに限ったことではないのだな」
 小さな声で呟いて、弁護士は手に提げたアタッシュケースに資料ファイルの 中身だけを入れ、空になったケースをまた書架へ戻した。そのまま出口へ向か おうと書架の間から通路へ出た弁護士は、危うく誰かと鉢合わせしそうになっ た。
「おっと、失礼」
 いささか気取った口調で頭を下げると、相手も軽く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
 何気なく相手をみやった弁護士は、もう少しで声を上げるところだった。華 奢な体に黒い法服をまとった青年『判事』は、顔こそ殆ど知られてはいないが、 その名は広く響きわたっている。治安『判事』、翡翠は微かに首を傾げた。
「失礼ですが、あなたは・・・」
「申し遅れました。私、広陵法律事務所の居空と申します」
 内ポケットから名刺を取り出し、治安『判事』に差し出す。
「弁護士さんが一体、なぜここに?広陵弁護士のデータバンクは『法廷』にも 勝るとも劣らぬ質量を備えていると有名ですが」
「もちろん、我々としても情報収集にはかなりの力を入れてはおりますが、や はり『警察庁』と『法廷』には及ばぬところもありますので」
「なるほど、そういうことですか」
 弁護士はもう一度、軽く一礼して背を向けようとした。
「お待ちなさい、ニセモノ弁護士さん」
「なっ・・・!」
「居空弁護士は民事専門ですよ。刑事裁判にはノータッチだ。この資料室に用 があるとは思えませんね」
「私は体の良い使いっ走りなのですよ」
「いつも数件の裁判を抱えているやり手弁護士をただの使い走りに使うほど、 広陵法律事務所は人手が足りないと?」
 居空弁護士------をかたっていた男は翡翠を見つめた。翡翠の顔に、勝ち誇っ たような色は欠片もない。
「・・・治安『判事』のデータバンクもまた、他に類を見ない優秀かつ膨大な ものだということですか」
 男は微笑んで、魔法のような手つきで拳銃を取り出し、翡翠にぴたりと照準 を合わせた。
「つい、化けやすい背格好の人間に化けたのが運の尽きですね。私がここから 出て行くまで、少し大人しくしていてもらいますよ」
「そんな要求を私が呑むとでも思っているのですか」
「脅しでこんなものを持っているのではないのですよ。私は本気なんですがね」
「あいにく、私も冗談で言っているわけではないのですが」
 まるでその証明をしようとしているかのように、翡翠は無造作に側の書架へ 近づくと、警報装置を何のためらいもなく押した。途端にけたたましいサイレ ンが鳴り響き、異分子の侵入を告げる警告音を発する。
「い号三十五群書架には、リネス氏の関係する犯罪資料が収められている。あ なたの狙いはリネス氏の周辺をきれいにすることでしょう」
「そのくらいのことはお見通しだと言いたいわけですね」
 男は苦笑した。目の前の青年は、拳銃をただの脅しだと見くびっているわけ ではないらしい。ただ、その銃で撃たれようが撃たれまいが、殺されようがど うでも良いことだとしか思っていないようだ。
 『法廷』に侵入され、良いように荒らされたとあっては『法廷』の威信は地 に落ちようというものだし、『法廷』の資料は確かに、命を盾にしてでも守り 通す価値はある。とはいえ、資料ごときに本当に人の命をかけるかどうかはも ちろん別の問題だが。
 男は何のためらいもなく、引き金を引いた。突き飛ばされたように翡翠の体 が書架へ叩きつけられ、ずるりと崩れ落ちる拍子に現在地を示す書架番号表示 板に血がべっとりとなすりつけられる。翡翠に男が近づくのと、資料室の扉が 勢い良く開かれるのと、ほぼ同時だった。思わず立ちすくむ警備員に、男はにっ こり笑っていった。
「近づくと、治安『判事』の命はないよ」
「貴様、『判事』を・・・!」
「『判事』も本気だが、私も本気だったということを教えて差し上げたまでさ。 だが、君たちがここから出ていかないと、今度こそ本当に『判事』は命を落と すことになるが?」


(つづく)






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