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キャット・テール------猫を名乗るだけあって、男の身のこなしはすばしこいものだった。塀の上を軽々と走り、跳び移っていく。途中で二、三回塀から下り、カツアゲ中だったチンピラや職務質問中だった内界警邏巡察官、人目を忍ぶ逢い引き中の男女を突き飛ばし、ついでにぶん殴って天誅を下したりしたが、その誰もが驚いて悲鳴や怒号をあげただけで、千歳を引きとめようとはしなかった。重装備したトレーサー、しかも犯人を追跡しているらしいトレーサーを不必要に足止めしたりしては、命も危うい。 街はずれの解体中のビルの前まで来たとき、キャット・テールは足を止め、振り向いた。 「ここまでくっついてきたのはあんたが初めてだ」 「こんなにあきらめが悪いのも、あんたが初めてだ」 千歳はちらりと左右を見て言った。あたりには人気がない。超変則勤務の超界外勤トレーサーの千歳には曜日感覚は無縁のものだが、どうやら解体作業は休みの日のようだった。静まり返って、何の物音もしない。 「アシであんたをまくのは、どうやら無理らしい」 「悪いね。最近の殺人鬼はアシも早いから」 「その腰に下げた、でかいレーザーガンは飾りかい？」 「挑発には残念ながら、乗れないんだ。あんた、『中級』だろ」 千歳は追跡中に照会した情報を披露した。 「あんたの腕がいくら良くても、やってる中身はそれほど危険性がないと判断されてる。一人も人を殺したことのない窃盗団相手じゃあ、トレーサーといえども、問答無用で射殺する許可は下りないんだ」 「それにしちゃあ、さっきはいきなり合金刀で切りつけてくれたがな」 「知らなかったからだよ、あんたを。僕たちはほとんど『高級』しか相手にしないから」 無意味なおしゃべりを続けているようなこの瞬間にも、千歳は『警察庁』本部に向けて信号を送りつづけていた。この男に負ける気はしないが、勝てる気もしない。万一自分が取り逃がしたとしても、後を追ってくれる人間をできるだけ近くに呼び寄せておきたい。現在地を知らせる通報装置を作動させながら、千歳はじりっと間合いを詰めた。 「聞いたところじゃあ、トレーサーはみんなすぐに銃にものを言わせるって話だったが」 「それはガセだね」 「なるほど、必ずしも銃に頼らなくていいってことかい。かえって物騒だな」 男の言う通りだ。トレーサーはいわば、全身が武器の塊なのだ。実際に全身に凶器を帯びているということもあるが、生身でも、その戦闘能力は著しく高い。酔って同僚と喧嘩したトレーサーが肋骨を三本ずつ、二人合わせて六本折ったというのは笑い話のような実話だ。本気でやれば、素手でも人間くらい殺せるかもしれない。ただし、「その気でやれば」だ。 「ご心配なく。殺す気は毛頭ないから」 千歳はまた間合いを詰めた。 相手から、殺気は感じ取れない。闘志はイヤというほど感じるが、こちらを殺そうという気はないようだ。さすがに「誰も殺さない」のが信条の「怪盗」らしいというべきか。 鋭く息を吐き、大きく踏む込む。突撃用重装備の鉄板入りブーツの爪先が男のこめかみをヒットする絶妙のコースを跳んだが、するりとかわされる。千歳は着地の反動を使って逆回転の肘打ちを放った。今度は避けきれず、右腕でブロックする男の脇腹めがけて正拳を突きだす。危ういところで跳びすさった男はすっと身構えた。 「変わった筋だな」 「ありきたりじゃ喉を裂かれるのがオチさ」 男の目が細められる。自分よりもずっと血にまみれた毎日を送っているのかと問いた気な視線だったが、千歳は気にしなかった。この男、下手なチンピラよりずっとまっとうな神経の持ち主のようだが、それも千歳には関係のないことだ。相手が血を好もうが避けようが、トレーサーの取るべき行動はただ一つ、逮捕あるのみだ。 「惜しいな。相棒に欲しかったよ」 「残念、超界外勤トレーサーは単独任務が普通なんだ」 「なら用はないね」 再び、千歳が仕掛けた。顔面を狙って右の拳を振るう。身を沈めて避ける、と見た千歳は間髪入れず左膝を開いた顎めがけて振り上げた。入った、と思った次の瞬間、男の黒い体がひらりと音もなく宙に舞った。 「待て！」 ほとんど予備動作もなく廃ビルの二階の窓------といっても壁は全て取り払われて、向こう側まで風通しの良い状態に変わっていたが------へ跳びあがった男を追うべく、千歳は軽く右手を振り下げ、ワイヤーを投げた。細い、一ミリにも満たない華奢な針金だが、千歳が十人程度ぶら下がったところできしりとも言わないだけの耐性を持った特殊鋼だ。ぼろぼろになった一階部分の窓を足場にワイヤーの助けを借り、二階へと登る。 ビルの向こうがわにぽっかりと開いたうつろな風景に目をやる暇もなく、乾いた音がして男の蹴りが跳んでくる。待ち伏せを百も承知で後を追った千歳は難なくかわすと、左手の合金刀を軽く引き伸ばした。こんな狭いところで長い得物は圧倒的不利だ。全長を出しているわけではないが、それでもわざわざ不利を承知で合金刀を出した千歳に、男は渋く笑った。 「そいつで突き殺す気かい？」 「あんたほどじゃないけど、僕も血は好きじゃない。そんなに心配しなくても殺さないから、安心して捕まって欲しいな」 「やめておくよ、俺は神経質だから枕が変わると眠れないんだ」 今度は男が足を踏み出した。すさまじい蹴りが頭上を通り過ぎていくのを感じながら、千歳は体をひねり、左腕をバックハンドで男に叩きつけた。予想以上の速さで回し蹴りが連続して襲いかかってくるよりも早く、合金刀は男の肋骨をしたたかに殴りつけていた。わずかによろめきながらも跳びすさり、また油断なく身構えた男は、微かに苦い笑みを浮かべていった。 「想像以上のパワーだな」 「絶対折れない、切れないものはないのが自慢の合金刀だからね」 千歳は男の賛辞をかるく受け流した。合金刀と言ったところで、触れるもの全てを切り刻むわけではない。合金刀には切る、突く、の他にも「殴る」という使い方があるのだ。尤も、そんな使い方をするのはトレーサーの中にはそれほどいないが。 手応えではアバラを折るまでには至っていない。合金刀を利用した裏拳を叩きつけられて血を吐かなかった男は初めてだ。千歳の動きを読めてはいなかったはずだが、それでも男は千歳の攻撃を巧みにかわし、ダメージを分散させることに成功していた。 一筋縄では行かない。わかってはいたが、千歳はさらに警戒を強めた。 男は制服巡察官に化けていたとき、「怪盗と名乗っている泥棒が出た」といったが、正しくは「怪盗キャット・テール」ではなく「キャット・テール怪盗団」だ。追跡中、本部から断片的に得た情報では、男は単独ではなく数名の部下を率いて仕事をしているらしい。となると、ボスの後を追って、部下たちがここへ集まってくる可能性がある。この男一人でもてこずっているのに、余計な邪魔が入っては逃がしてしまう恐れがある。 この次で勝負を決める。 千歳の闘気に気づいたのか、男も油断なく身構えた。じわり、と位置をうつす。千歳もそれにしたがって少しずつ、足場を移動させる。 仕掛けたのは千歳が先だった。左からの回し蹴り、合金刀を格納した左正拳突きを腕で止められ、攻守が交代する。みぞおちめがけて跳んできた蹴りを後ろへ跳んで避け、続く蹴りをとっさに右手へ跳んで避けようとした瞬間------ 「危ない・・・！」 全く、気づかなかった。わずかにのこった壁際に、風を避けてうずくまっていた小さな浮浪児。男の蹴りは、見事に少女と千歳を結んだ一直線上を跳んでいる。おびえて尖った瞳と、凶器となって迫ってくる男の蹴りと------ 千歳に、選択の余地はなかった。 「ぐ・・・っ！」 背骨のきしむ音が聞こえたような気がした。激しく壁に叩きつけられ、呼吸も、心臓の鼓動すら一瞬止まったような気がした千歳の視界は、急激にブラックアウトした。 |