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あたりは真っ暗だった。 前を歩いている人の姿、朧気な輪郭はおろか、自分の手すら見えない。鼻先に銃を突きつけられたとしても、全くわからないだろう。 翡翠は、墨のように真っ暗闇の中を、孔雀に手を引かれて歩いていた。 上を向いているのか下を向いているのか、まっすぐ前を向いているのか、自分でもわからなくなるほどの闇の中を、孔雀は全く気にも留めず、すたすたと歩いている。 突然、治安『判事』の執務室に現れた孔雀は、半ば、いや実質的には誘拐のように強引に翡翠を外へ連れ出した。どこをどう歩き、飛んだのか、・・・気がつけば、この暗闇の中を、手を引かれて歩いていた。 「孔雀・・・どこへいくつもりだい？」 返事はない。 足音が微かに反響しているところを見ると（聞くと？）、かなり深い地下層を歩いているのだろうか。真昼でも日の射さない、文字どおりどん底の地下街。 「ねえ、孔雀・・・」 「知ってるか？」 不意に声が聞こえた。 「満月の夜は、アタマがおかしくなるんだぜ」 俗説としても広く流布している噂だし、実際、統計を見ても満月の夜は事件・事故が頻発する。月の引力に魂が引かれるからだ、という。 くすくす笑う声が聞こえる。 翡翠はふと、不安になった。 前を歩いているのは孔雀だろうか。そう思えば、前を歩いている人間の気配が妙によそよそしくて、雰囲気が違う気がしてくる。ひんやりとした、どこか冷たく無機質な気配。本当に、誰かいるのだろうか？手をひかれていると感じているのは幻覚で、本当はたった一人で深い闇の中をさまよっているのではないだろうか？それとも、もしかしたら、これは孔雀に良く似た、誰か違う殺人鬼？ 「・・・」 武器もない。体力もない。腕力も、通常のレベルでしかない。いつも身辺を警 護してくれる護衛兵も、事務官も、誰も居ない。こんなところで手を振り払われ、ひとり置き去りにされてしまうと、二度と誰の目にも触れることなく、闇へ消えてしまうのかもしれない。 心細くなって、つないでいる手を握ると、ひんやりした手が、それでもぎゅっと握り返してくれた。 どれくらい歩いただろうか。 突然、明るい光の中に出た。眩しくて、目をそばめるほどの。 「・・・ここは・・・」 一面に、白い花が夜露に濡れて咲いている。まるで幻のように美しい草原。 「俺の秘密の場所」 大きな白い月を背に、孔雀が立っていた。月の光が反射し、海のように煌めく碧い瞳で、翡翠を見つめていた。 「誰にも言うなよ」 「・・・うん」 「ここへ連れてきたのはお前だけなんだからな」 「言いたくても、どうやって来たのか、全然わからないよ」 満足そうに頷くと、孔雀はひょいとすわり込み、下から翡翠の法服をくいと引っ張った。 「まあ座れ」 「・・・うん」 「お前は酒はダメなんだったな」 「うん」 一人で黙って酒盛りをはじめた孔雀。まるでそこに翡翠が居ないかのように。小さなグラスに月の光が反射する。ほんのりと甘い香りが、翡翠の鼻腔を刺激する。 「僕にもくれる？」 「ん？・・・」 「何だか、見てたら僕も欲しくなった」 微かに首を傾げ、それから孔雀はだまって翡翠の手にグラスを持たせ、酒を注いでくれた。舐めるように口に含んで、それからぐいと思い切って一気に呷る。空になったグラスにもう一度注ごうとすると、翡翠は首を振ってそのままグラスを返した。 「もういいよ」 「そうか」 口当たりはとても良かったけれど、相当きつい酒のようだった。全身に酔いがまわり、顔が火照ってくる。けれど、そよいでくる風はひんやりと肌に冷たかった。 「・・・どうした？」 桜色に上気した翡翠の頬に孔雀の手が触れる。ひんやりとした感触が、心地良い。翡翠は目を閉じて、地面に横たわった。さやさやと風が吹くと、白い花の香りがした。 「酔った。・・・」 「一口だけだろ」 「でも、酔った」 「気分悪いのか」 いつもなら、投げ積み荷物同様の扱いなのに。翡翠はくすりと笑った。 「良い気分だよ」 「そうか」 小さなくしゃみを一つした翡翠に、孔雀が顔を覗き込むようにして言った。 「寒いのか？」 「ちょっとだけ」 無造作に、パーカーが掛けられる。アルファ・ゾーンの母親に買って貰ったものだろうか。 心地よい微睡みの中で、もう一度翡翠が目を開けると、白い月は中天に高く上がっていた。 「ああ・・・そうか・・・」 自分の声が、どこか遠くから聞こえる気がする。ああ、酔っているな。 「今日は・・・中秋の、名月、なんだ・・・」 返事は、優しく髪をかき上げる仕草ひとつだった。 |