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「オレ、お前が大嫌い」 翡翠は顔も上げずにさらりと言った。 「いまさら教えて貰わなくても知ってる」 「・・・あ、そ」 「用がないなら帰りなさい。私は忙しいんだ」 孔雀はすぐ側に置いてあった百合の花束を手にとった。女子職員からの 『判事』へのプレゼントだ。直接手渡すと断られるから、と、戸口だのテー ブルの上だのと、所構わず放置（？！）していくものだから、いちいち翡 翠も返しに行くわけにもいかず、結局そのまま執務室の片隅に山積みにさ れていく。 百合の花芯に指で触れると、色鮮やかな花粉が指先にべっとりと付着し た。息で吹き落とそうとしても、取れるものではない。布でふき取ること にした。 「・・・法服で指を拭くなぁッ！」 「だってティッシュないんだもん」 「言えば出してやる！・・・染みになったらどうしてくれるんだ」 「笑ってくれる」 翡翠の手に握られた鉛筆がみしり、と軋んだ音を立てた。相手をしては いけない、と自分を諭す言葉が孔雀の耳にまで入ってくるほど怒っている ようだ。ウワサでは、翡翠の胃には既に親指大の腫瘍が三つほどあいてい るということだが、胃に穴があくよりも先に、髪が抜けるのではないかと 孔雀は常日頃『ガーディアン』たちに主張している。 「・・・何か僕に用があるの？」 とうとう大きな溜息をついて椅子にもたれ掛かった翡翠が、尋ねた。仕 事から意識が離れたせいか、憔悴しきった目で、孔雀が指を拭った所をぱ たぱたと叩いている。孔雀はガードシステムを切り、治安『判事』の執務 室の窓を開けた。ひんやりとした空気が火照った頬に心地良い。 「ちょっとつき合えよ」 「そんなヒマはないって」 「いいから」 「ちょっと孔雀、・・・うわっ！」 乱暴に翡翠の身体を脇に抱えると、そのまま窓から外へひょいと跳びだ した。 執務室は地上十階の高さにある------。 「ほら、月」 孔雀の呑気な声に気づき、恐る恐る目を開ける。明るい、真昼のような 月明かりをバックに、孔雀が翡翠の顔を覗き込んでいた。逆行で、表情ま ではわからなかったけれど、笑っているということだけは、気配でわかっ た。 「・・・え？」 「きれーだろ？月」 今にも落ちてきそうな程大きな、白い月が静かに辺りを照らし出してい た。そっと周りを伺うと、執務室のすぐ下にある花壇の中で、孔雀の膝枕 で横たわっていることがわかった。 「中秋の名月って、いつか知ってる？」 「・・・今日じゃないの？」 「違うみたいだぜ。だってテレビで何にもいわねーもん」 さらさらと風の音がする。どうしてこんなところへあんな乱暴なやり方 で連れ出したのか、それ以前にどうやって二人とも無事に着地できたのか、 ・・・翡翠は考えないことにした。 「ああ・・・確か今年は遅いんだよ。十月のはじめ頃じゃなかったかな」 「そか」 「うん」 「でも、きれーだろ？」 「・・・うん」 虫の声がする。 これは現実だろうか？仕事に埋もれて毎日毎日人間の命をモノ同然に扱 って、命を削るように生きている日常から、ぽっかりと抜け落ちてしまっ たような一瞬。 「お前、最後に見た月っていつ頃だったか覚えてるか」 「いや・・・覚えてない」 「だと思った」 翡翠は大きく息を吸い込んだ。土の、草の、命の匂いがする。目を上げ ると、大きな月と、孔雀の顔のシルエットが浮かんでいた。 「・・・綺麗な月だね・・・」 「・・・うん」 吐息が静かな寝息に変わるのは、時間の問題だった。 花壇の中で足を投げ出して座り込んでいる孔雀は、ぽつりと呟いた。 「おやすみ」 |