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「嘘つき」 誰かの声が聞こえる。 「お前だってなんにもわかっちゃいないクセに。自分だけ全てがわかってるっ て顔して。一体お前は何を知ってるって言うんだよ？」 全く表情を喪した孔雀が僕を冷たく見おろしていた。 これは孔雀ではない。僕の良心と、僕を責めている世界とが孔雀の姿を借り て現れているだけだ。今の僕にとって、畏れるべきものはもうなにもないから。 『大法廷』の大『判事』ですら、僕にとっては恐ろしい敵でもなく、畏れ敬う べきものでもなく、ただ自分の思う道を進むことを妨げているだけの障害物と なり果てている。 何も持たない、故に全てを断罪することを許された孔雀が、僕の中に現れて 僕を責めるのだ。 「お前は一体何を理解したと言うんだ？この世界の一体何がわかっている？何 が掴めた？」 「・・・全てがわかっているなんて思っちゃいないさ」 「じゃあ何ならわかっているんだ？」 「少なくとも、・・・自分のことは掴めているさ。そして、一面的ではあるけ れど、周囲のことも、少しは」 「それが傲慢だと言うんだよ」 孔雀は初めて表情を動かした。それは、見たこともないような侮蔑と嘲りの 表情だった。 「一面的？じゃあ反対の側面もあるってことだよなあ？それはつまり、お前の 掴んでいるものとは全く正反対の動きをするってことじゃないのか？」 「正反対の正反対は同一だろう。単なる理屈じゃないか」 「理屈だよ。だけど、それじゃお前の言う『理解している側面』というのも、 やっぱり単なる理屈だなあ？」 「・・・」 「お前は一体何者なんだ？お前は一体何なんだ？」 「僕は・・・僕だ。今ここに存在し、思考している。物質的に存在している。 それで全てだ。それ以上でも以下でもない」 「存在している、と誤解している存在、だな？」 「誤解なものか！僕は・・・」 「死ねば塵になる」 孔雀の手がひらりと舞う。 「塵になり、人の記憶から消えていく。それは存在したんだろうか？幻ではな いという証はどこにあるのだろう？」 「存在しない物でも、意図的に記録に残せばそれは存在した物ということにな るのか？違うだろう？」 「お前は存在するのか？」 「何をいまさら、そんなこと・・・」 「何も理解できない、誰からも理解されない、それは存在していると言えるの か？」 孔雀の声が遠くなった。 腕を上げてみると、掌を透かして孔雀の姿が見えた。 「理解できるものなんて何もありやしない。理解できると誤解しているだけな んだ。それならどうしてお前が存在している価値がある？」 「価値は・・・僕が決める！他人が決めるものじゃない！」 「あり得ないものの存在を一生懸命議論しているようなものじゃないか？お前 は居ても居なくてもどうでもいいんだよ。だって、誰にもわかるはずがないん だから」 腕が、体が、透き通る。世界が、孔雀が、全てが透明に・・・消えていく。 「価値のある物なんか何一つない。本当は何も存在しないんだ。わからないも のは無くて良い」 全てが消える。影すら消えて、何もない、ただ空白の世界が広がっていく。 反論しようとする声も、思考も、意識すら消えて、溶けていく。 微かに、最期の声が聞こえた。 「消え失せろ」 ・・・いきなり酷い衝撃が耳と頬に広がった。 「うあーびっくりしたッ！いきなり耳元で怒鳴んなよ！」 孔雀が怒鳴っている。僕はじんじんと痛む耳に手をやった。 「あ〜う〜を〜〜い〜え〜〜・・・良かった、耳は聞こえてるみたいだ」 おかしな発声で耳の聞こえ具合の点検を終えた孔雀は、ぶすっとした表情で 僕を睨み付けた。 「俺の横で寝るのは許すけどなー、寝惚けていきなり変な悲鳴なんか上げんな よな！」 「そこ、元々翡翠さんが寝てらしたんだけど」 「・・・るさいッ、いちいち突っ込むな、舞々！」 「でも、やっぱりそういう基本的な事実はおさえておかなくちゃいけないと思 うの」 「思うな！」 ああまた『ガーディアン』が騒いでいる、とばかりに療養所の人々は、今更 孔雀の怒鳴り声に注意を払ったりはしない。のんびりとした空気が流れている だけだ。 「孔雀さんて翡翠さんの側が好きなの？」 「好きなわけねーだろ、お前バカか？」 「だって、翡翠さんの側で寝て、邪魔だとか窮屈だとか言ってる割には全然場 所を移さないじゃない」 「・・・そ、そうか？」 「この間も寝惚けて蹴られたとか言って、やっぱり今日も翡翠さんの側にいる じゃない」 「・・・なんかさ、こいつの側にいたら良いこと有りそうな気がしねー？」 「いいことって？」 「や、お見舞いのお裾分けが食えねーかな、とか」 「お菓子もらえそうかなーとか？」 「うん」 「・・・お母さんが持ってきてくれたお菓子、食べる？」 「うん、喰う」 年下の少女からお菓子をもらって嬉しそうな顔をしている孔雀がふと振り向 いて、呆然と耳を押さえたままだった僕の手を乱暴に取った。 「殴って悪かったよ。でもパーで叩いただけだからそんなに痛くないはずだぞ」 「・・・うん」 「大体なーお前が悪いんだぞ！俺の耳元で変な声出すから思わず手ぇ出ちまっ たんだぞ」 「うん・・・」 「・・・お菓子、喰う？」 全てを断罪することを許された孔雀。僕の存在を許さなかった審判者。 でも、今目の前にいるのは、僕の存在を前提として認めている孔雀だ。 「あ・・・孔雀さんが泣かした」 「おいっ、何で俺が？！」 「だって、翡翠さんをぶったの、孔雀さんだもん」 「何でだよッ！元々先に手ぇ出したのは翡翠だぞ！」 「声だけだもん、翡翠さんが出したの」 「あっ・・・汚ねえぞ、舞々！」 「あーあ、孔雀さんが悪いんだ〜」 「このクソ舞々ッ・・・おい、お前も何で泣くんだよ！そんなに思っきり殴っ てねーぞ！」 「ばちんって言ったもの、痛かったと思うな、私」 「お前も殴ったろかッ！」 不幸な状態から、不幸ではない状態に移ったからといって、それは幸福な状 態とは言えない。でも、辛い状態から、辛くはない状態に移ることは、それは 幸せなことと言えるのだろうか。 僕には、言える。 ほんの一瞬でも良い、辛くない状態、何もない、退屈な瞬間が欲しい。孔雀 はそれを僕に与えてくれる。同時に、血みどろの地獄絵をも見せてくれる存在 ではあるけれど・・・・・ どちらも平等に運んでくる使者。 孔雀の手は、暖かかった。 |