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『法廷』はいつもいつも忙しい。暇な日などあり得ない。事務官たちはいつも忙しそうに右往左往しているし、『判事』たちはせっせと公印を押し続けている。だが、そんな彼らも、『法廷』を離れ、視察や出張にでかけることもある。そんなときはもちろん、防弾ガラスに鋼鉄板をはめ込んだ専属の運転手つきの公用車で移動する。それは、治安『判事』でも『大判事』でも、代わりはない。公安関係の高官には、常に命を狙われる危険がつきまとっているのである。 「おい、翡翠。出かけろ」 「・・・え？」 いきなり治安『法廷』へ入ってきた孔雀が、翡翠の腕を取った。 治安『判事』の部下として働いている『ガーディアン』だが、決して心の底から『判事』に服従しているわけではない。出来ることならば、殺してやりたい------いつでも、誰もがそう思っているのだ。 「なあ、どこでも良いから出かけろ」 「そんなこと言われても・・・」 「いーじゃん、どーせお前ヒマじゃん」 「失礼な」 『法廷』の中では比較的ヒマとは言うものの、それは「比較すれば」ということであって、純粋にヒマでヒマで仕方がないということとはまた違うのだ。翡翠は憮然としつつ、言った。 「私は君と遊んでいられるほどヒマじゃないんだ」 「遊べとは言ってねーよ。出かけろってんだ」 「私の居ない間に何かしでかそうというのかい」 「いーや」 孔雀はポケットから大事そうに何かを取り出すと、翡翠の鼻先へ突きつけて見せた。 「これを見よ！」 「運転免許証？君、免許持ってたっけ」 「一昨日とった」 「へーっ・・・よくそんなお金あったね」 つい、ぽろりと本音を言ってしまった翡翠の言葉に、孔雀は痛く傷ついた表情を見せた。 「うん、かーちゃんが出してくれた」 「そんなことじゃないだろうかと思ったけど。・・・ＡＴ限定なんだね」 「オヤジがミッションは俺に向いてねーって言ったから」 「だろうね・・・」 血のつながりはないとはいうものの、さすがは１９年間も孔雀を「我が子」として育てただけのことはあって、性格を良く把握しているものだ。アルファ・ゾーンでの孔雀の両親、宮内夫妻は当然の事ながら、孔雀を全く恐れては居ない。時には見ている方がひやりと肝を冷やすほど、簡単にぶん殴って見せる。そんなときの孔雀は、ぶつぶつ文句は言うものの、決して口答えしないところが、見ていて飽きない所である。 尤も、冷静に孔雀を十分以上観察していられる人間は、ベータ・ゾーンでは翡翠くらいのものであるが。 「それを見せびらかしに来たわけ？暇だなあ」 「全然ヒマじゃねーよ！俺はあと一時間したらユタの店でバイトしなきゃなんねーんだからな！」 「だったらこんなところで油を売っていないで、」 「だから早く出かけろってんだよ」 「なんで？」 「畏れ多くも有り難くも、俺様直々にお前を車にのっけてやろうってんだ。有り難く出かけろ」 「・・・ご両親を乗せてあげたら？きっと喜ばれるよ」 「オヤジとお袋はもう昨日乗せた」 「・・・それで、今日は僕なわけだね・・・」 頭が痛くなってくる。 免許を取り立てで、嬉しくて嬉しくて運転してみたくて、誰かにそれを見せびらかしてみたくてたまらない気持ちはわかるけれど。 「でもね、僕はほら、忙しいからさ」 「でも、これから出かけるだろ？」 「出かけないってば！」 「視察とか、行くだろ？」 「僕は別に視察も出張も行かないから」 「でも、何か用事あるだろ？」 期待に満ちた目で見つめてくる孔雀。 本当に「これ」が『冥王』と呼ばれ、恐れられていた伝説の殺人鬼だなんて、思えない。事実を知っているはずの翡翠でさえ、信じられないくらいだ。 「お前がいやだって、いかないっていうんなら、『大法廷』の『大判事』を代わりにのっけるぞ」 「・・・やめてくれ、そんな恐ろしいこと！」 「じゃ、出かけよ？」 地球の運命をどっかり預けられてしまったような気分で、翡翠は玄関まで降りてきた。孔雀がやってきた目的を知っている事務官や余所の『法廷』の『判事』や職員たちは、「頼むから孔雀を怒らせないでくれ」と拝まんばかりの視線を送ってくる。それほど恐れなくても、孔雀の取り扱いは困難なものではないのだが・・・。 溜息をついた翡翠に、上機嫌な孔雀が言った。 「どこへ行く？」 どこも何も、「どこでも良いからとにかく出かけろ」と言ったのはお前だろう！翡翠は内心突っ込みながらも、シートベルトを装着した。 「君の好きなところへ行けば？」 「遊んでていーのかよ？」 「・・・『大判事』が、自分がドライブに行くくらいなら、僕に一日外で遊んできてくれる方がましだってさ」 「ふーん。『法廷』って楽でいいなあ。俺も今度『法廷』でバイトしよ」 呑気なことを言って、車をスタートさせる。黒塗りの立派な公用車はしずしずと進み始めた。最初はもちろん、市街地だから大したスピードは出せない。なかなか安全運転を心がけているんだな、と孔雀の方を振り返った翡翠は、思わず孔雀の横顔に見とれてしまった。 未だかつてないほどの真剣さで、ハンドルを握っている。律儀に口の中でブツブツ言いながら左右を確認し、ぎこちない動きで運転しているところをみると・・・別に、安全運転を心がけているのではなくて、単に慣れなくて怖くてスピードが出せないだけだと気が付いた。 「ねえ、孔雀」 「るさいッ！今俺に話しかけるな！」 「・・・若葉マーク貼ろうか？」 「俺は丁稚じゃないぞ！」 「紅葉マークの方が良かった？」 「お前、俺に喧嘩売ってんのかッ？！」 「うわっ、ちゃんと前見て！」 「うわわわわ、信号無視したぞ、今！」 「頼むからぶつけないでよ、孔雀」 「わかってる、俺は無事故無違反でゴールドカードを手に入れるんだ！」 慌ててまた前方を睨み付けている孔雀を、感心したように翡翠が見つめた。 「へえ、偉いね」 「その方が更新手続きの時のカネを払う回数が減るから」 そんな理由があっていいものかどうか、翡翠はしばし悩んだが、軽く頭を振った。どうせ相手は孔雀だ。何でも有りということにしておかなければ、こちらが疲れるだけだ。 「で、どこへ連れていってくれるの？」 「知らん。横の車のヤツラに聞いてくれ」 「えっ？」 まさか、特別公務員の公用車と知って、何か仕掛けてこようというのだろうか？緊張した表情で窓の外へ視線を送った翡翠に、孔雀が言った。 「右に曲がれない」 「・・・ちょっと、それ、もしかして隣の車が危害を加えるとかじゃ全然なくて、君がヘタクソだからってだけのことだったりする？！」 「下手下手って言うな！」 「だけど・・・！」 「左だったら曲がんの簡単なんだけどなあ」 「ちょ、ちょっと、今自分がどこを走ってるか、わかってる？」 「わかんない。ここ、どこ？」 こんなやつを合格させたのは、どこのどいつだ！こんなヤツに、何で免許なんか渡すんだ！ 翡翠は、その日のうちに無事に家に帰ることがことが出来るだろうか、と哀しい気分でシートに沈み込んだ。 「んーと、どこから来たんだっけ？」 「・・・どこかの交番で聞こうか・・・」 孔雀って、方向音痴だっけ。 翡翠は気が遠くなるような気持ちで、ぼんやりと、ゆっくり流れていく窓の景色を眺めながら、そんなことを考えていた。 2000.10.16 2:41 AM |