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翡翠はそっと息を潜めて隠れていた。外の廊下には、獣か人間か、訳の分からないモノの激しい息づかいが響いている。遺伝子研究所から逃げ出したキマイラなのか、それとも野生化した犬なのか、・・・どちらにしても、あんなものに食いつかれては、ぼろ雑巾のようになるのがおちだ。 やがて、廊下のずっと先で何かを見つけたのだろう、激しく吼える声と、獰猛なうなり声、攻撃によって怪我を負った獣の鳴き声が聞こえてきた。 「まだ二階しかあがってないのに・・・」 泣きそうな気分で、翡翠は隠れていた部屋を抜け出した。 あの、蝋燭の光に瞬いていた階数表示は、間違いだった。五十九ではなく、第六十九層だったのだ。 通常、一般市民は地下第二層くらいまで潜れば十分、恐ろしい目に遭うことができる。それが、よりにもよって、第六十九層？しかも、階段はまだ下へ続く気配を見せていた。一体この地下街は、何階まで続いているのだろう？それを一階一階、自分の足で上っていかなければならないのだ。しかも、安全な『法廷』庁舎ではなく、犯罪者、殺人鬼たちがウヨウヨしているこの暗黒地下街を。 ここは一体、どのあたりなのだろう？第六十九層まで落とされた、ということはわかるが、中心地から一体どのくらいの距離を来たところなのか、現在地が全くわからない。たとえ地上と連絡が付いたとしても、「第六十九層にいる」だけでは、捜索にかなりの時間がかかることだろう。 なるべく足音がしないように、そっと階段を上がっていく。誰にも見つかりたくない・・・そんな時に限って、最悪な奴らに見つかるものだけれど・・・つい、頭の隅でよけいなことを考えたせいだろうか。 「よう」 「・・・！」 「お上品そうな坊やが、一体どうしてこんな地下深くまで潜ってきたんだ？」 ぞろぞろと階段の上から、怪しげな姿をした男たちが降りてくる。ぎらりと光る長刀に、黒く浮かぶ錆。きっと、血を吸ったまま放置しておいたせいでできあがった錆だろう。 「・・・ちょっと、事情があって」 「ほーお。俺たちがその事情とやらを聞いてやろうじゃねえか」 「遠慮しておくよ」 「そうはいかねえ」 十人近くはいるだろう男たちのリーダー格らしい男が、にやりと笑った。 「何でも、『移界玉』が使われて、お偉いお役人様が跳ばされたとかいう話を聞いたぜ」 「・・・」 「例え、お前さんがそのお役人様でなくてもいいや。身代金でも取る道具には、なってくれるだろう？」 身代金になるだけなら、まだましというものだ。もし自分の命を盾にとって、『ガーディアン』の解放や、治安『法廷』の解体などを持ち出されたら・・・たとえ一時的にでも、『ガーディアン』プロジェクトが機能しないという事態は避けなければならない。『ガーディアン』たちが野放しにされたと知られたら、犯罪発生率はとんでもなく跳ね上がってしまう。それは、すでに実証済みなのだから・・・！ 「身代金なんか、とれないよ。私は孤児院出身だからね」 じり、と一歩下がり、翡翠はそっと左右を窺った。右手はさっき、怪しげな獣が走っていった地区に近づく道だ。ただ逃げるだけなら避けたい方角だが、無法者に追われている現状では、うまくいけば、獣と同士討ちしてくれるかもしれない。もちろん、うまくいかなければ、自分があの獣の牙で引き裂かれる運命にあるわけだが。 「それに、私に人質の価値なんか、ないよ」 そう、これっぽっちも。 『法廷』は取引に応じないだろうし、誰も危険を冒してまで、翡翠という人間を助けようとは思わないだろう。治安『判事』の代わりは、いくらでもーーーいるのだ。 「さあ、どうかな？あんたがもし本当に治安『判事』なら、治安『法廷』は取引に応じるだろう？」 「応じやしない。私なら、絶対に応じない。見殺しにする」 「何だと・・・」 それが、治安を守るということ。 それが、治安『判事』というもの------ 「だから、放っておいてくれないかな」 一瞬、隙を見せた男たちから逃れようと、暗い廊下を右手へ向けて走り出した。 「待ちやがれ！」 挫いた足が、痛む。とても、まともには走れない。それでも翡翠は手近にある扉を開け、中に飛び込んだ。扉から扉へ、片っ端からあけては飛び込み、逃げた。 自分でも一体どこをどう走ったのか、全く覚えていない。とにかく、走って、走って、走り回って・・・気がついたら、小さな倉庫のような部屋の中で、うずくまっていた。 「・・・痛い・・・」 男たちはうまく捲けたのだろうか。もう、痛くて歩けない。こんな時でも空腹が辛かった。ほとんどろくに食事もせずに買い物に出て、そこで訳の分からない事件に巻き込まれたのだ。いや、そもそも食料を調達しようとして外へ出たのだから、ほとんど食べていないのは当たり前だ。 逃げている途中、階段をほとんど転げ落ちたような記憶がある。せっかく地上を目指して歩いていたのに、また逆戻りしてしまったのかもしれない。それを思うと、翡翠はどっと気落ちしてしまった。たった二階分、上がるだけでもあんなに神経を消耗させて上ったというのに・・・たった一瞬で、逆戻りか。 生きて、戻れるのだろうか。 地下第六十九層など、誰も迎えに来ることなどできはしない。『トレーサー』の潜行も、第二十層まで、と決められている。それ以上の潜行は、命の危険を伴うとして、認められていないのだ。たとえ、誰かの命を救うためでも------ 「見つけたぜ」 突然、腕を掴まれた。誰かが近づく気配も感じなかったのに？！ 「手間かけさせやがって」 扉が開き、まぶしいほどの光が目を刺す。小さな部屋から引きずり出された翡翠は、先ほどより人数が増えている男たちの前へと乱暴に突き飛ばされた。 「ちょこまか逃げやがって、うっとうしい野郎だ」 消耗して疲れ切っている翡翠から気配を消すことなど、造作もないことだったのだろう。まるで人喰い獣のような、獰猛な笑みを浮かべて、男は翡翠の腕を痛いほど握りしめて離さなかった。 「『法廷』があんたを見殺しにするかどうか、試してみようか？」 「試すまでもない。治安『法廷』には私がいなくなっても十分機能するだけの代行機関がある。それよりも、私に危害を加えて、特級にランキングされることの方が怖いんじゃないのかい」 「殺さなきゃあ、いいんだろ？」 残忍な笑みを浮かべ、男は言った。 「たとえば、殴るとか」 暴力の世界に生きる男たちにとって、それは「殴る」とも言えないほどのものだったのかもしれない。だが、岩のような掌では、平手打ちされるだけで十分すぎるほどだ。壁に叩きつけられ、髪を掴まれて再び壁へ打ち付けられる。足を蹴り払われ、廊下に転がった翡翠の胸部を鉄板のような足が踏みつけると、息さえできないほどの苦しさに、思わず悲鳴を上げそうになる。 「助けて欲しけりゃ、泣き叫んでみろ」 げらげら笑いながら、男はさらに翡翠の胸ぐらをつかみ、軽々と持ち上げると、喉を突いた。 「ぐ・・・っ！」 「へっ、こんな奴が治安『判事』だと。笑わせるぜ、てめえ一人じゃ何にも出来ねえひよっこが」 腕を掴みあげ、無理矢理立たせると、今度は顔面へ岩のような拳を叩きつける------ 「自分にできねえことを、人を雇ってやらせるのが雇用関係だろ。そんなこともしらねーのか、バーカ」 跡形もなく、顔面を砕いてやるはずの拳は、華奢な腕一本に押さえられている。小馬鹿にしたような表情の少年が、力自慢の自分を何の苦もなく抑えたのだと知って、男は動揺を隠せず怒鳴りつけた。 「なっ・・・て、てめえ、どこから出てきやがった・・・！」 「上から入って来たんだよ。下から入れるわけねーだろ」 またもや、バーカ、と続けて、少年はぐったりしている翡翠をそっと、しかし断固として取り返すと、言った。 「治安『判事』に手をあげたな？」 「うるせえ！てめえ、何者だ！邪魔をしやがって、ただで済むと思うな！！」 「ただで済まねえのはてめえらだよ。わざわざ俺が、お前らと世間話をしにこんなところまで降りてくると思うか？」 「なにっ・・・まさか、貴様」 「なーにが『まさか』だよ。地下第七十層まで、善良なる一般市民が降りてこられると思うお前らの頭はどうかしてるんじゃねーのか？」 「『ガーディアン』？！まさか、あいつらが治安『判事』を助けにわざわざ降りてくるはずがねえ・・・！」 「俺だって好きで来たんじゃねえよ！いろいろ事情があんだよ！今月は金欠なんだ、仕方ねえだろ」 むっとした表情で言い訳がましいことを呟き、そして、全身を覆う畏界の蒼い焔------火焔呪を操る『ガーディアン』といえば、一人しかいない。 「『冥王』孔雀・・・？！」 「はい、ご苦労さん」 火焔呪に男たちが気を取られている隙に、銀色に光る玉を足下に投げつけると、すさまじい光と煙とともに、男たちの姿は忽然と消えてしまった。 「・・・星夜のくそガキ、頭だけは良いみたいだな」 届け先をきっちり指定してある『移界玉』など、作り出せるのはこの世で空知星夜くらいのものだろう。もちろん、行き先は『トレーサー』が万全の体制で待ちかまえている、『警察庁』庁舎前だ。星夜の専攻は薬学のはずなのだが、・・・この際、難しいことを考えるのは止めた。どうせ、孔雀が考えてもわかるような仕組みのものではないのだ。悔しいが。 「ふん、どーせ俺はアタマが手元不如意だよ。おい、翡翠」 足下でぐったりしている翡翠を抱き起こすと、孔雀は眉を寄せた。 「・・・おい、大丈夫か？顔、殴られたのか」 「・・・孔雀？・・・」 ぼんやりした目で見つめてくる翡翠。どうやら、まだ意識が朦朧としているようだ。孔雀はさらに眉を寄せると、唇にそっと指で触れた。 「切れたのは、唇だけか？口の中は、どうだ？」 「ん・・・大丈夫、みたい・・・かな・・・」 「みたい、かな、って何だそりゃ」 頼りない口調は、恐怖のためというよりは、暴行を受けたせいで意識がはっきりしないせいだろう。孔雀はペットボトルの口をあけて、翡翠の口へ注ぎ込んだ。 「な・・・に、これ・・・」 「スポーツドリンク。ちーすけが持っていけって。体力が消耗してるときは、これが良いんだって」 「冷たくて、気持ち良い・・・」 「さすがに殴られ慣れてるだけあるな」 「君の分は？」 「心配するな。ほら、ほしけりゃもっとあるぞ」 次から次へと出てくるペットボトルに、さすがに翡翠の意識もしっかりしてきたようだった。 「一体何本持ってきたの？」 「さあ。六本くらいかな」 一本が１，５リットルだから、六本だと、九リットル。ほぼ九キロの重さだ。そんなものを持って、よくここまで降りてこられたものだ。 「ほら、これ」 「え？」 殴られて、熱を持っている頬にそっと当てられたのは、冷たいタオルだった。 「痛いだろ。これで冷やしとけ。上へ上がる頃には、だいぶましになってるはずだから」 「・・・うん」 「頭は？ちょっと血が出てるけど、冷やすか？」 「冷やすか、って・・・あるの？」 「あるよ」 「でも、いくらなんでも湿布までは・・・」 「ある」 翡翠は思わず、孔雀の顔を見つめてしまった。 「・・・一体、なにを持ってきたんだい、こんなところまで」 「俺が知るか！ちーすけと葉っぱが、あれもこれも持って行け、って俺にでっかいリュックを背負わせたんだからな！」 乏しい地下街の明かりでよく見ると、孔雀は大きなリュックと水筒（！）を下げている。これで帽子でもかぶっていれば、まるで、ハイキングにでもでかけるような姿だ。元はといえば、自分を助けるためにわざわざ持ってきてくれたものなのだろうが、思わず苦笑する翡翠に、孔雀はご丁寧に赤い十字の縫い取りのある袋を開けて、湿布を出して言った。 「で、湿布はどこへ貼るんだ」 「足を、挫いちゃって・・・歩けないんだ」 「何ッ！」 愕然とした、孔雀の表情。 おそらく、どんな凶悪犯と対峙したときでも、こんな深刻な表情は見せないだろうな、と思わせるほどの悲痛なものだった。 「じゃあ、俺はお前を背負って、上まで上るのか？！階段を？！」 エスカレーターのような、便利なものがあるくらいなら、僕は自分一人で帰ることができたんだけれど・・・と、心の中で呟いて、翡翠は苦笑した。 「君が肩を貸してくれたら、自分で歩くけど」 「めんどくさい、そんなことするくらいならお前を担いで上がった方がずっと早いじゃねーか！」 だから俺はいやだったんだ、とぶつぶつ言いながらも、それでも丁寧に腫れた足に湿布を貼り付けて、不器用ながらに包帯を巻いてくれた。それから、タオルをもう一度冷たい氷水で冷やしたものを頭に巻き、頬に当てさせると（リュックの中にまだ何が入っているのか、聞く気が失せた）、孔雀は翡翠を立たせた。 「んじゃ、帰るか」 まるで、遠足から帰るかのような、気楽な科白。地獄の底の、第七十層からそう簡単に生きて戻れるはずはない。ましてや、けが人連れでは、とてもではないが二人無事に戻ることなど出来はしないだろう。 普通、ならば。 「・・・うん」 だが、孔雀と一緒ならば、とても簡単なことのように思える。実際、冗談のように大きいリュックと水筒を下げてふらふら地下街へ降りてきた孔雀は、全く無傷で翡翠を助けに来てくれた。きっと、孔雀と一緒なら、簡単に、元の世界へ・・・地上へ戻ることが、できるのだろう。 「畏れ多くもかしこくも、俺様が直々にお前を背負ってってやるんだからな。忘れんなよ」 「うん」 「ほれ、さっさとこっちに来いって」 乱暴に翡翠の腕を掴んで引き寄せる。 ------乱暴に？ 「・・・ねえ、孔雀」 「なんだ？」 「いや、その・・・重くない？」 「お前なんか紙屑みたいなもんだ。水筒の方がよっぽど重い」 乱暴に、翡翠を引き寄せた孔雀。 だが、その「乱暴」は、あの男たちに比べたら、あまりにも優しくて。『ガーディアン』たちが、そして、孔雀がいつも、どれだけ翡翠を繊細に扱っているのか、どれほど優しく気遣って接しているものか。 こんなことがなければ気づけない自分を少しだけ、嫌悪した。 「孔雀・・・」 「疲れたろ。眠かったら寝ていいぞ」 「・・・うん」 一階につき千円として、七万円か。うん、悪くないアルバイトだ。 孔雀がぶつぶつうれしそうに呟いているのを、翡翠もなぜか幸せな気分で聞きながら、穏やかな眠りに入っていった。 |