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リネス会長は、ふん、と軽く翡翠の皮肉をあしらった。尤も、目はかなり泳いで、親子以上に年の離れた若い相手に気圧されているということを隠しきることはできていなかったが。 「だが、君一人で何ができる？こそ泥と『トレーサー』が一人いるだけだ」 「私は勝ち目のない喧嘩を売ったりはしない主義なんですよ」 「なら、これが最初で最後の負け戦と言うわけだ」 ポケットから小さな箱を取り出して、にやりと笑う。 「これが何かわかるかね？このビルにとりつけた爆弾の起爆装置だよ」 「てめえ、人間か？！どんな権利があって、ここに住んでる人間を殺そうってんだよ！」 ライムが叫んだが、リネスは「こそ泥」の青年など見向きもしなかった。 「金のない人間は、人間ですらない。それが、自由競争主義というものだ」 「それがあなたの持論ですか」 翡翠はライムを手で制して、静かに言った。 「そのボタンを押したいと言うのなら、どうぞ」 「私が本気ではないと思っているのかね？君たちをここのウジ虫どもと一緒に吹き飛ばすことなど、私には造作もないことなのだよ」 「ボタンを押したところで、何も起こりはしませんよ。私の部下がとっくに爆弾の処理を完了させていることでしょう」 「時間稼ぎをしようとしても無駄だ。この新型爆弾の解体が、そう易々と短時間で終わるはずがない」 「ではどうぞお試し下さい。・・・今すぐどうぞ？」 涼しい顔をした翡翠の言葉に、リネス会長の自信に満ちた表情がだんだんと不安に揺らぎはじめた。 大きなビル一つを爆破解体するために設置した爆弾は、およそ百五十個。そのどれもが、確実にビルを破壊するために設計された新型設計のものだ。マニュアル通りに手順を進めれば、解除操作はそれほど難しいものではないが、少なくとも一つの爆弾を解体するには十分以上かかる。百人以上の大部隊を投入するのならともかくも、この短時間ですべて解除できるはずはないのだ。 だが、治安『判事』のこの落ち着きようは一体どうしたことだろう？ ボタンを押すぞ、と言って脅迫したが、今すぐこの場でボタンを押すわけには行かない。まずは、自分が安全なところへ避難してから、の話だ。目の前の相手に危害を加えるにはいささか弱い脅迫だが、数千人とも言われている人質のことを考えれば、十二分に威力を発揮してくれるのだが・・・リネスは忌々しげに舌打ちをすると、すぐ隣にいたボディガードに命じた。 「治安『判事』どのはこの世に未練がないそうだ。遠慮せずに、その鉛の玉を差し上げろ」 「はっ」 大型火気の銃口が、一斉に翡翠に向けられる。千歳が庇おうとするまもなく、耳をつんざくような銃声が、あたりに響きわたって・・・・・その直前、蒼い炎がふわりと翡翠と男たちの間を舞って、消えた。 「あ、あの炎は・・・」 死体どころか、欠片さえ残らないほどずたずたに千切られたはずの翡翠は、静かな表情で立ちつくしている。髪の一筋すら、傷つけられない無傷のままだ。 「あれは・・・火焔呪？！」 翡翠の前に現れた蒼い炎。優雅に踊るように舞う炎の中に、滲むように姿を現した黒髪の少年。長い髪が、炎と一緒に舞い上がっている。 「孔雀！」 「治安『判事』に手ぇ出すなんて、バカだな、お前も」 色の白い、小柄な少年------孔雀は体に蒼い炎をまとわりつかせて、笑った。 「とりあえず、死ぬか？」 「くそっ・・・おいっ、あいつらを殺してしまえ！」 男たちに命じ、自分は逃げようとしたリネスの体を、蒼い炎が包んだ。 「ぎゃあ〜っ・・・あ、熱い！助けてくれ・・・！」 すべてを焼き尽くす、畏界の炎・・・だが、リネスの体は燃え尽きることなく、蒼い炎に捲かれたまま、床の上をのたうち回っている。焼き殺すための炎ではなく、ただ、苦痛を与えるためだけのものなのだ。孔雀は肩をすくめた。 「俺に灼かれるより、ふつーに裁判受けた方がましだと思うけど？」 もっとも、と孔雀は笑って付け加えた。 「治安『法廷』の管轄事案に入った事件の裁判が、そうそう甘い判決出すとは思わねーけどよ」 リネス会長たちを油断させるためにわざと遠ざけていた機動隊に指令を出して呼び寄せると、後から後から男たちがビルの中へ乗り込んできた。爆弾の本格的な除去と、リネスたちを連行するためである。その中には、キャット・テールの部下たちもいて、無事な姿を見せて再会を果たした。 「・・・ところで、一つ聞きたいんだが」 キャット・テールが硬い表情で、翡翠を------孔雀を見つめた。 「あんた、本当に『冥王』なのか・・・」 「俺はテストで悪い点とった時しか嘘ついたことねーぞ！」 真顔で自慢げに胸を張る孔雀は、実は自分が非常に情けないことを言っているのだという自覚がないようだ。キャット・テールは慎重に、何かを探るように言った。 「俺を覚えてないか？」 「知んない。お前、俺の知ってるヤツか？」 「少なくとも、俺ははっきりと覚えてる。二十年以上前に、一度会ったことがあるのを、覚えていないか」 「・・・そんな昔のこと、孔雀が覚えてるはずないじゃないか・・・」 ぽそりと聞こえてきた小さな呟き。 孔雀は隣に立つ、すべてを超越している------ように見えた------治安『判事』を振り返って、怒鳴った。 「るさいっ！おいっ、お前も何かヒントを出せ、ヒントを！そんな漠然とした話じゃなくて！」 「二十年前、俺はまだガキで、こそ泥のまねごとをしているちんぴらだった。俺が盗みに入ったビルの中で、シビリアンと鉢合わせしたんだ」 当時、治安は現在とは比べものにならないくらい、劣悪だった。十五歳以上の少年の非行率は七十五パーセントを超え、犯罪発生件数は一日に五千件を超え、犯罪に巻き込まれて死亡する人間の数は一時間で五十人を超えた。まだ子供といってもいい年齢だったキャット・テールもまた、多聞に漏れず盗みで一日を食いつなぐというその日暮らしを送っていた。 「その中に、あんたが・・・『冥王』がいた」 「ふーん」 「『冥王』たちはもうひと暴れしてきた後だったらしい。あんたもそれほど気分が乗らなかったんだろう、だから、俺はあんたの振るった剣から逃れることができたんだ。・・・俺は必死だったよ。でも、あんたはそんな俺を見て、猫みたいなヤツだと言った」 「あー・・・そういや、何か、猫みたいにはしいこいヤツがいたっけなあ。・・・あれ、お前だったのか」 「あんたにもう一度、会いたかった。・・・あんたの気まぐれやお情けじゃない、実力であんたの前から消えて見せてやりたかった。『冥王』に出会えば必ず殺される、という、あの伝説を破ってみたかった」 「無駄だと思うけど。やってみっか？」 にやりと笑う孔雀の顔は、まさしく『冥王』の名にふさわしいものだった。少年だったころのキャット・テールを畏怖させた、あの時のままの------ 「・・・その前に、早く証拠をもらえないかな」 緊張しかけたその場の空気を、見事にぶちこわすような、治安『判事』の退屈そうな声に、キャット・テールは思わずも戦意と緊張感とを喪失してしまったが、孔雀は新たな、いや、一層の闘志をかき立てられたようだった。キャット・テールと向き合っていたときとは比べものにならないような、激しい敵意をむき出しにして怒鳴った。 「あのなー、お前、俺がこいつと話してる時に横から話の腰を折るなよ！」 「僕は君みたいに暇じゃないんだ。さっさと帰って仕事に戻りたいんだけどね」 「なんだとう！お前、俺がちょっと一時間７５０円で雇われてやったと思っていい気になるなよ！」 「誰がいつ君なんか雇うって言った？！」 「お前っ、俺をただ働きさせる気だったのか？！ドロボーよりひでえヤツだな！」 「冗談じゃない、君が先月僕の名をかたって食堂で飲食した費用がいったいどれだけになったのかわかってるのか？！」 一瞬、孔雀が言葉を詰まらせた。 今までの冷徹な治安『判事』の顔しか見ていなかったキャット・テールと部下たちが唖然と二人の口論を聞いていたが、やっと口を挟む隙を見つけたキャット・テールが、当然の疑問を口にした。 「一人で飲み食いした金額なんか、たかがしれてるだろう」 「僕が孔雀のために二十五万支払うのはたかがしれていると？！」 とたんに、凄まじい勢いで振り返った翡翠が、ふるえる指をキャット・テールにつきつけた。何故か、激怒した表情の方が、あの冷たい嘲笑よりもずっと人間味があって、親しみが感じられる、とぼんやりとどこかで考えていた。 「に、二十五万？！一ヶ月で？！」 「僕は君を養うために働いているんじゃないんだぞ！ちょっとウエストサイドまで来て爆弾の火薬を火焔呪で燃やすくらい、朝飯前だろう！」 「せ、せめて出張旅費くらい出せ！」 「食い逃げの罪で強制執行をかけられないだけ、ありがたいと思え！何なら君の全財産を差し押さえて競売にかけてもいいんだからね！」」 「・・・俺は飼い主に恵まれていない。俺は不幸だ」 どっちかっていうと、「飼い犬に手をかまれる」って感じだけど。もちろん、どちらが飼い犬でどちらが飼い主かは、言うまでもないことだろうが。千歳は賢明にも黙っていることにした。 治安『判事』との話し合いの結果、キャット・テールは司法取引でリネスと副区長の悪巧みを公正証書で証言することに同意した。 「もちろん、今回の副区長私邸へ押し入ったことだけだよ、チャラにするのは。今までずっと『警察庁』をきりきり舞いさせていたんだから、それくらい仕方ないだろう？」 そこで、翡翠は神々しい笑みを浮かべてキャット・テールを見つめた。 「・・・それに、キャット・テール怪盗団は治安『判事』のお情けを必要とするほど落ちぶれていないと思っているのだけれど？」 「あんたには負けるよ。さすが、『冥王』すら部下にしただけのことはある」 「一応、ほめ言葉と思っておくよ。・・・そのお返しに、一つ言っておこう」 翡翠は声を低くして、少し離れたところで千歳をからかって遊んでいる孔雀には聞こえないように、言った。 「孔雀には、無防備に近づくな。今の孔雀が見かけ通りの、治安『判事』の間抜けな飼い犬だとは思わない方がいい。本質的には、孔雀は『冥王』と呼ばれて恐れられた時のまま、少しも変わっちゃいない」 「あんたの制御も効かない野生の獣だと？」 「孔雀は私の命令など何とも思っていない。私の制御など、効くものか」 「・・・それは、忠告かい？」 「いや。警告だ」 翡翠の目はキャット・テールを離れ、孔雀の方を向いた。その視線は、とても遠くて・・・翡翠の目には、孔雀よりももっと遠くのものが映っているかのようだった。 「・・・孔雀は、ただ『ガーディアン』であるという以上の、微妙な存在だから」 治安『判事』が孔雀に一体何を託しているのか。『ガーディアン』機構に、治安維持以上の何を求めているというのだろうか。キャット・テールには、はっきりとした答えはわからなかった。だが、目の前の青年が噂以上の強敵で、しかも、全く保身を------生命の安全さえ図ろうとしないことを知って、その「何か」がおぼろげにわかるような気がした。 「俺だって、命は惜しい。不必要に、猛獣に近づいて尻尾を踏みにじるような真似はしないさ」 「それだけの分別がある人間だとは思っていたけれどね」 ほっとしたような顔を見せた翡翠に、キャット・テールは疑問を抱かざるを得なかった。 この青年は、なぜ『冥王』を『ガーディアン』に選んだのだろうか？と。 「・・・そんなことより、あんた、自分の心配をした方が良いんじゃないのか」 「私の心配はしてもらわなくても結構だと、言ったろう？」 おそらく、その答えは自分が思ったとおりのことなのだろう。キャット・テールはそれを言う代わりに、違う「心配」を口にした。 「俺は『冥王』にたかられやしないが、あんたはすっかりカモだろう？『冥王』の飯代であんたが破産しないことを天に祈っておいた方がいいかと思ってね」 「・・・よくもそんな不吉なことを」 このときばかりは、治安『判事』も無表情の仮面をどこかへ忘れて、肩を落とした。 「縁起でもない。本当に破産したらどうしてくれるんだ」 「えっ、なに、お前破産するの？」 「・・・しないよっ！してたまるか！！」 「なーんだ、つまんねー」 「僕は君を楽しませるために生きているんじゃないぞ！」 すべての怒りを孔雀に向けて怒鳴っている、そんな憤怒の表情の方が、あの冷酷な無表情よりもずっと近づきやすい気がするのは、・・・孔雀という存在が、治安『判事』を一個の人間としてつなぎ止めているからなのだろう。あのお人好しの『トレーサー』が二人を見ておろおろしながらも、どこかほっとした表情をしているのは、そのせいなのだろうな・・・そう思いながら、キャット・テールはそっと部下たちに合図を送ってその場を去る体勢に入った。 「消える前に、お前さんの名前を聞いておきたいんだが」 孔雀と翡翠が破産の話で真剣に口論していたせいで、キャット・テールの声に気づいたのは、千歳一人だった。 「・・・行くのか」 「俺たちは正義の味方になる気はないんだ」 「そう・・・か」 千歳は一瞬、残念そうな表情を見せたが、淡い微笑を浮かべた。 「僕は、千歳。千歳三等巡察官」 キャット・テールは千歳に向かって、敬礼して見せた。 「元気でな。お前さんは嫌いじゃないが、できればもう会いたくない、強敵だ」 「・・・僕も、あんたたちは嫌いじゃなかった」 だが、顔を合わせれば、千歳は彼らを捕らえようとするだろうし、そうしなければならない。そして、キャット・テール怪盗団も、当然のように千歳を倒して逃げようとするはずだ。どちらかが自分の立場を捨てない限り、永遠に同時には存在し得ない相手。 だから、千歳は、言った。 「誰も、死なないことを祈ってる」 それは、『トレーサー』にとって、そして犯罪者にとっても、最大の惜別の言葉だった。 「ありがとう」 その一言を残して、「キャット・テール怪盗団」はその名に恥じない見事な消え方をした。 おそらく、彼らはこれからも盗み続けるだろうし、誰にも捕まらないだろう。もっと話をしてみたかったし、彼らと一緒にいたかった気もする。だが、千歳には「怪盗団」のメンバーはつとまらない。何故なら、千歳は、『トレーサー』以外の何者でもないし、その他のものになる気もないから。・・・・・・ 「・・・今度会ったときは、手錠をかけられるのはあんたの番だよ」 千歳は長い間、キャット・テール怪盗団が消えた廊下を見つめていた。 2001.03.19 |