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「翡翠ッ！」 どがん、と音がして扉が蹴り開けられた。この音を聞くと、単に誇張表現としての「蹴り破られた」という状況ではなく、本当に扉を思い切り蹴り開けたようだ。 「あ、揚羽さま、困ります、『判事』さまは非常に多忙な…」 「私だって多忙でヘソで茶が沸かせる状態だッ！」 方や『法廷』事務員、方や泣く子も黙る巡察官をひと睨みで凍りつかせ、震え慄かせることができる人事部切っての硬派の才媛、揚羽巡察管理官だ。滅多なこと…というよりは、一体どんなことがあれば揚羽自ら治安『法廷』へ足を運ぼうと思うのか、見当も付かない状況でのこの乱入では、どうみても『法廷』事務員、春菜の方が分が悪い。 どうやってヘソで茶を沸かすのかはともかく、相当激怒しているらしい、と知って翡翠はにっこり微笑んだ。 「やあ、揚羽、元気そうで何よりだよ」 「残念ながらお前を絞め殺す程に理性を失っていないのが残念だがな！」 翡翠は揚羽の足下に視線をやった。ごく普通の黒いパンプスを履いているところをみると、ごく普通のレベルの「激怒」に過ぎないようだ。もしも本当に翡翠を絞め殺したいくらいに激怒しているのだとしたら、必ず支給されている安全靴に履き替えてきているだろうからだ。 「ところで、多忙でヘソで茶が沸かせるくらい忙しい君が、一体何の用だい？孔雀は最近あまりこちらへは来て居ないよ」 「色つき雀の方がまだタチが良いと思えるくらいだ！お前、一体何を吹き込んだ！」 「え…君の事を？誰に？」 孔雀のことが用件でないとすれば、揚羽をここまで激怒させる覚えは全く翡翠にはなかった。 女性、というよりは「同士」に近い感覚である以上、誰かに揚羽の話をするときは必ず「彼女は必ず自分の思い通りのところまで上り詰めるよ、女性であることなんか彼女の能力の前にはなんの障害にもならない」と、翡翠にすれば------官庁勤めの人間に対する評価としては最高級の賛辞を口にしてきたし、誇張をした覚えも、おべんちゃらを口にしたつもりも全くなかった。 「私は近頃全然キミの話を聞かなかったし、キミのことを話した覚えもないけれど…」 「ならどうして国立高校生が二人も雁首そろえて法律大学の話を聞きに来るんだ！」 襟首を掴まれたのは、揚羽よりもずっと背の高い、真面目そうな、誠実そうな少年と、揚羽の怒りのテンションの高さにあっけにとられているのか、不思議そうにきょとんと目を見開いている少女と。 「舞ちゃんに、吉野くん、…だったね、確か」 「はあ、あの、えっと、すみません」 とりあえず、挨拶よりも詫びのほうが先だと判断したらしい吉野少年が襟首をつかまれたまま窮屈そうに頭を下げたが、舞の方は、壁一杯に広がる書棚に詰め込まれた法学書や解説書、資料ファイルなどの量に圧倒されたのか、ただただ壁面に視線をやるだけだった。 「この二人はお前の知り合いだろうが！」 「そうだけど、でも」 「お前の知り合い以外が、私が法律大学の助手を相手に五人抜きした、なんて言ってくるはずがなかろう！」 「え、三人じゃなかったのか？！」 「阿呆、二人に頭突きと膝蹴りを食らわしただけだ！」 「で、でも、どっちにしても五人抜きなんて僕は言わないよ」 「お前以外に言いそうなヤツがいるだろう！」 舞と、翡翠の目が合った。 「あの、孔雀さんから、法律大学に残るはずだったのが助手さん五人を蹴り倒して卒業扱いになった方が居らっしゃるってお聞きして…」 信じるなよ。 孔雀を良く知らない吉野以外の人間の心の中で、一斉に呟かれた嘆きの声だろう。 「…法律大学への慰留要請を受けていたのは私ではなくて翡翠の方だ。私は『警察庁』の監理官試験をパスして卒業する予定だったし、残留申請も出すつもりもなかったしな」 「えっ、じゃあ、孔雀さん、冗談で仰ったんですか？！」 本人を目の前にして「襲い掛かった助手を五人同時に相手にして再起不能にまで叩きのめした」などという噂をたった今まで信じていました、といわんばかりの舞の言動に流石の揚羽も眉を寄せるだけで済ませるのはかなりの苦行だっただろう。 「冗談か悪意かは知らんが、ウソはウソだな」 「…舞ちゃん、揚羽に一体何を聞くつもりだったの？まさか五人抜きの秘訣を聞きたかったわけじゃないでしょう？」 そんな役目は舞を心配そうに見つめる吉野の役割だろうに。 舞は、はい、と答えた。 「実は私、法律大学に行きたいって思ってるんです。そして、できれば、大学に残りたいと思っています」 「なるほど、それでＯＧの話を聞きたいと思ったわけだ」 「ええ、でもつい五人抜きの話を先に聞いてしまって」 翡翠と揚羽は目を見合わせ、そして、同時に苦笑を浮かべた。 「おい、キミ。吉野とか言ったな」 「はい、お忙しい中を本当に申し訳ありませんでした」 「キミはどうやらあの色つき雀の与太をすぐまともに取らないだけの度胸と、常識があるようだ。この、天才かもしれないが孔雀の言うことを本気で信じてしまうお嬢さんのお守はキミに任せる」 「え、あの…」 「返事はどうしたッ！」 相手は事務屋とはいえ、あくまでも『警察庁』職員である。揚羽はあえて言わなかったが、大学助手の五人抜きではなくとも、『警察庁』に入庁してから、武道の心得のある三人の男性巡察官を同時に頭突きと膝蹴りと正拳突きで地に這わせたこともある揚羽監理官の怒声にも似た命令に、返事をせずに居られるのは翡翠くらいのものだろう。 「はっ、はいっ！」 「わかればよろしい。翡翠、大学のジジイどもに残留するよう慰留されたのはお前だ、このお嬢さん方の相手はお前がしろ」 くるりと踵を返す相手に、翡翠はかろうじて聞き返した。 「まった、お嬢さん方って…」 「彼の方も法律大学進学を考えているそうだ」 嵐のように飛び込み、邪魔したな、と頭を下げて見送る春菜事務官の肩を叩いて去っていった揚羽。 「…揚羽って、監理官よりも巡察官になって犯罪者を蹴り飛ばしている方が性に合ってたんじゃないかねえ…」 思わず、揚羽に聞かれたらまた怒鳴りつけられそうなことを呟いた翡翠だったが、気を取り直した春菜事務官に応接セットへ案内されて恐縮している二人を見て、微笑を浮かべた。 少々、いや多少、いやかなり、…物凄く…不安はあるが、しっかりしたお目付け役兼恋人もいることだし、彼のほうもかなり真面目な性格のようだし、良い人材が法曹界を目指している、しかも二人も、というのは喜ぶべきことだろう。 翡翠はとりあえず孔雀の暴言（といっても案外根も葉もないことではない気がする、などと思いながらも）は忘れることにして、若い二人の将来の選択に、気分が暖かくなるのを覚えていた。 |