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砂翁はふと顔を上げた。普通の人間ならば感じない程の僅かな、ほんのりと甘い香りが、鼻を掠めたのだ。 手に持っていた小さな壜を作業机の上に置き、立ち上がると窓辺に近づいた。細く開いていた窓を大きく開き、正面に生えている古木を見つめた。すうっと、目が細められる。 「今年は、随分早いんだな・・・」 普段は厳しい、滅多に動かない表情が僅かに綻ぶ。 梅の花。 もう、亡くなった彼の妻が、好きだった花。香り。清楚な、それで居て豊かな甘い香りを何よりも愛した妻。梅の香りは、彼が愛した妻と、家庭と、家族を思い起こさせる。そして、同じように、思い出させる。 彼らを永遠に喪った、あの日のことを。 砂翁の目はじっと、梅の花を見つめていた。白く慎ましやかな花弁を開いている花。主を慕い、空を跳んで追ったという伝説もある、情の深い花・・・。 「・・・大丈夫だよ」 砂翁は小さく呟いた。左目を照らした陽光が、まるで鏡に反射したかのようにきらりと煌く。 「私が、そちらへ行くんだから・・・」 もう、とっくに「老人」と呼ばれる年齢を過ぎてしまった。残された時間は少ない。亡き妻が困る前に、待ちきれなくなってしまう前に、老衰で彼女たちの傍へ逝くことになるのだろう。 「ああ、また、いつか必ず。・・・」 また、必ず、二人で散歩に行こう。 その時は、私がお前の手を引いてあげるから。 見えないお前の目の代わりは私の役目なのだから。 それまでは、先に持たせてやった私の左目で、・・・・・・・・ |