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その日も、遅くまで『法廷』に残っていた翡翠は、溜息をついて立ち上がった。 ダメだ、これ以上ここに居ても仕事が進まない。 「まだ十一時か」 日が変わらないうちに家へ帰ることが出来ることなど、殆どない。たまに孔雀が邪魔をしに来る時以外は、必ずといっていい程、日付が変わってから『法廷』を出る毎日だった。 法服を脱いで、ロッカーへ仕舞い込む。カバンを取って扉を閉めた時冷たい音がして、なぜか酷く傷ついたような気がした。 ・・・疲れているのだ。一体何が、傷つけるというのだ。これ以上、何をどう傷つくというのだ。子供じみたことを考えるのももう大概にしたらどうだ。 デスクのスタンドのスイッチを切ったとき、廊下でガタン！と大きな音がした。 「おい、翡翠、まだ居るだろ」 ノックと同時に扉が開く音がする。もういい加減文句を言うのにも翡翠自身飽きてしまったので、非礼を咎めることはしなかった。 「もう帰るところだよ」 「そうか！ちょうどいい！」 孔雀は白いシェフジャケットに、緑色のスカーフを巻いていた。アルバイト先から直接やってきたのだろう。孔雀は強引に翡翠の腕を掴むと、言った。 「お前、どうせ晩飯もまだだろ。昼飯だって食ってないんじゃないか」 「えーっと、・・・」 その日の昼食に何を食べたのか、そもそも食べたかどうかということさえよく覚えていない。あやふやに言葉を濁す翡翠の返事の内容などもともと気にしていなかったのか、孔雀はぐいぐいと腕を引っ張っていった。 「お前に飯を食わせてやるから、来い」 「いいよ」 「うるさい！文句言うな！」 「あのねえ、どうせ僕がお金を出すんだろ？」 「違う」 おや、珍しい。翡翠は目を見張った。 「ユタの店へ行くんだ」 「ああ、そういえば君はいつもご飯を食べさせてもらってるんだよね」 「賄いと言え、賄いと」 「・・・君しか店員が居ないんでしょ」 「うるせーな、夕方からずっと今まで休みなしでぶっ通しで働いてんだからな」 小さいながらもよく流行っているイタリアン・レストランが孔雀のアルバイト先だ。オマケにその店長も『ガーディアン』なのだ。 レストランのウェイターというのは、見た目以上に大変な仕事だ。客の食事の進み具合やちょっとしたしぐさから機敏に動き、客の望むサービスを提供しなければならない。単に注文をとって皿を運べばよいというものではないのだ。特に、孔雀の勤務先は、小さいながらもコース料理を準備している、それなりに格式もある店だ。店長は「そんな大層なものじゃない」と一笑に付すが、自分の店と料理に自信を持っているのは確かだった。 「じゃあ、疲れてるんだろう？僕に構ってないで・・・」 「まだメシ喰ってないもん」 「あ、そ・・・」 それでは返事になっていない、ということに気づいたのは、店に連れ込まれてからのことだった。 「おう、待っとったで、はよ入り」 威勢のいい声に促されて、翡翠は店の重い扉を閉めた。黒光りがするような重厚な木の扉。癖になっているのか、孔雀が翡翠のコートをとってハンガーにかけてくれる。 「もう準備出来てんねん、はよはよ」 オーナーシェフの「ユタ」もシェフジャケットのままだったが、帽子はもう外している。店の照明は一部を除いて、落とされていた。 「翡翠は酒はあかんかってんな、確か」 「飲ませると寝るからな」 「そーか。せやけど、乾杯くらい付き合えや」 翡翠を強引に椅子に座らせて、二人は互いのグラスにワインを注いでいた。翡翠の前にあるグラスにも、少しばかり注いでから、グラスを取るように促される。 「んじゃ、乾杯！お疲れさん！」 「かんぱーい！」 ・・・ワインで乾杯って、どんなコースなんだ。翡翠は苦笑したが、それでも黙って、少しだけ口をつけた。 「ほれ、遠慮せんとどんどん喰いや」 「あ、ああ、ありがとう」 テーブルの上に狭しと並べられた料理の数々。前菜からスープからメインディッシュまで、デザート以外は全てまとめて並べられているようだ。内容的には立派なコース料理だったが、コース料理として味わうためには、誰かがウェイターとして世話をしなければならない。それを避けるために、まとめて並べているのだろう。乾杯がいきなりワインだったのも頷ける、と翡翠は納得していた。 「・・・一つ、訊いてもいい？」 「なんや？」 「コース料理にしては、一品ずつの分量が多くない？」 「ああ、普通に喰うたら多いんやけどな、まとめて喰う時はこれくらいないと足らんやろ」 そんなものだろうか。 どこか納得いかないものを感じながらも、翡翠は料理を食べ始めた。 立地条件としてはさほど良いとはいえない店だが、いつも行列が絶えないというのも頷ける。どの料理も美味しく、小食な翡翠にしては、結構な量を食べたように思う。それでも、孔雀は「もっと食え」と小言のようなことを言っていたが・・・。 「ほい、コーヒー」 「ありがとう」 食後のデザートは、イチゴのアイスケーキとコーヒーだった。デザートとコーヒーだけは最初にまとめて出すのは無理だったため、店長と孔雀がそれぞれ用意してくれた。久しぶりのまともな食事に、幸せな気分を味わっていた翡翠は、満面の笑みを浮かべてケーキに取り組んでいる孔雀と店長に、言った。 「ねえ」 「なんだ？」 「今日、食材が余ったんだろう？だから、僕を誘ったんだろう？」 二人は顔を見合わせていたが、同時に振り返り、親指を立てて言った。 「図星！」 「そんなことだと思ったよ」 「あっ、でもなっ、お前がどーせマトモな飯を喰ってねーだろうからって思ったからでもあるんだぞ！」 怒ったように怒鳴る孔雀に、翡翠は微笑んだ。 「わかってるよ」 「いーや、お前はわかってないっ」 「わかってるってば」 そう。 食いしん坊の孔雀にかかれば、この程度の分量は、一人でも綺麗に平らげてしまえるはずだ。足りずに皿や机までも齧りかねない。それでも、わざわざ翡翠を呼びに来たのは、食材が余ったからということもあったろうが、「翡翠に食べさせよう」と思ったから、に決まっているのだ。 「コーヒーのおかわり、もらえるかな」 「おー、ええよ」 にっかり笑ってユタがコーヒーカップを受け取る。 久しぶりの、楽しい晩餐だった。 |