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その時、翡翠は廊下を急ぎ足で進んでいた。巡察部との合同会議はもう始まっている時間だ。いつもはギリギリでも何とか間に合う時間に治安『法廷』を出ているのだが、今日に限って直前に電話がかかったり、他『法廷』から書類提出を求められたりして、慌てて部屋を飛び出した頃にはとっくに集合時間は過ぎてしまっていた。 会議室は二階にある。エレベーターを待つよりは、階段を上がった方が早いだろう。一段、階段を上がろうとしたとき、手を掴まれた。 「------？！」 「静かにした方が良いですよ？」 ひっそりと耳に囁かれた言葉。背中に押し付けられたのは鋭い切先。細身の柳刃だろうか。 「・・・こんなところまで来て強盗？」 『警察庁』本部庁舎のエントランスホールで、こんな物騒な会話を交わしているとは誰も思わないらしい。すぐ傍を『トレーサー』が忙しそうに歩いている隣で、凶器を突きつけられる羽目になるとは、翡翠自身も考えていなかった。 「こんなところでカネを求めるバカは居ないと思いますよ」 どんよりとした空は、廊下の窓を鏡面と変えている。翡翠の後にいる男が、サングラスをひょいと外した。 （・・・しまった・・・！） 魅入られたように、男の目から視線を外すことが出来ない。にやりと笑った男が、翡翠の耳元に囁いた。 「そのまま、私の目を見て・・・」 地の底から響いているように感じられる。周りの音がすうっと遠くなり、男の声しか聞こえなくなった。 （私に逆らわないようにね） のろのろと頷く自分の姿は見えるのに。 （そのまま、眠りなさい・・・） そして、男が次の言葉を囁いたとき。 「・・・何でそんなに言いたくないんだ？」 揚羽巡察監理官がコーヒーカップを無造作にどん、と机へ置いた。 「確かに、エントランスホールとはいえ、あんな胡散臭いヤツの侵入を許した我々に落ち度があるのは認めるが」 「・・・別に『警察庁』に不満があるわけじゃない」 翡翠はぶすっとした表情でコーヒーカップを睨みつけていた。 特に「治安『判事』」を狙っていたわけではないらしかったが、もう少しで誘拐されるところだった翡翠が、何故か相手の強い催眠術を破って抵抗した。それまで、完全に術中に嵌っていた翡翠の態度の豹変に、男も対処しきれなかったらしい。大騒ぎになって辺りは一時、大混乱に陥った。 『警察庁』との合同会議は、犯罪者たちのランキングの調整だったので、結局翡翠抜きのまま他の『判事』たちと行われたらしい。その間、翡翠は巡察官による事情聴取を受けていたのだが、・・・何故か、相手の術を破った辺りに差し掛かると、ふっつりと口を噤んでしまった。それまでは丁寧に、巡察官たちに協力的な態度を取っていた翡翠が、突然「喋りたくない」と言い出したのだ。『法廷』の高官を相手にしていた一般巡察官たちが、自分たちの態度の何が悪かったのかと平謝りに謝ってみても、頑として口を割ろうとしない。その後の犯人確保の時のことや、他のことなら質問にも応じるのだが、「何を言われたのか」「何故術を破ることが出来たのか」といった質問には全く応じようとしない。困り果てている巡察官たちの姿を見かねたのか、たまたまその場に居合わせた揚羽が翡翠の身柄を人事部応接室へ引き取ったのだった。 「なら、何故そう聴取を拒む？」 「・・・自分が情けなくなるから」 翡翠が犯罪者から催眠術を掛けられたのは、これが初めてではなかった。以前に一度まんまと術を掛けられ、それがもとで大事件に発展したことがある。その後、色々と身辺に気を配ってはいるようだが、二度目とあって自分を責めているのだろうか。 「それは・・・気持ちはわかるが、仕方あるまい？特別な訓練を積んだとしても、術者が強力であれば、負けてしまうものだ」 「それはわかっている」 なら、何だというのだ？揚羽は首を傾げた。 ・・・そう言われれば、「催眠術を掛けられた」ことを隠そうとはしていなかったようだ。確かに、二度目であることを恥じているようなことを言っていたようだが、それが理由で聴取を拒絶しているわけではなかった。むしろ、相手の支配を逃れたのだから、多少は自慢しても良いくらいだ。実際、翡翠を拉致しようとした男は術者としてはかなり上位者であるらしい。隠すべきところを隠さず、吹聴してよいようなところを隠している・・・どう考えても不自然だ。 「・・・何があったんだ？」 「・・・」 そういえば、あの時・・・揚羽から見ても、翡翠の行動はどこかおかしかった。どこかの官僚と見紛うような出で立ちの男と、いつもに似合わずどこかぼんやりとしたような翡翠。周囲の人間は全く気付いていなかったようだったが、付き合いの長い友人だからこそ感じた不審だったのか・・・翡翠に声をかけるために近づこうとしたとき、いきなり翡翠が男を殴りつけたのだ。しかも、顔面を。 すっかり手中に収めたと思って油断していた男は、突然の翡翠の攻撃に対処できなかったらしい。最初はまさか相手が犯罪者だとは思っていなかった人々は、怒り狂っている翡翠の方を捕まえて宥めようとしていたくらいなのだ。揚羽が居なければ、下手をすれば相手に逃げられていたかもしれない、・・・それくらい、翡翠の怒り様は激しかった。 「翡翠」 鋭い揚羽の声の中にも、相手を本当に心配してくれている、そんな友人の気持ちが読み取れたのだろう。翡翠は溜息をつくと、諦めたようにぽつりと言った。 「・・・もう苦しまなくて良いんだぞ？・・・って」 「・・・は？」 「あの男に・・・言われたんだ」 それが、そんなに怒り狂う程の台詞だろうか。刃物を突きつけられていることを一瞬でも忘れ去るほどに、ほぼ完璧だった術を破ってしまうほどに、翡翠の心を刺激する言葉だったのだろうか？ 「だって、・・・僕だって好きで払ってるわけじゃないんだ！」 「なに？」 「僕だって逃げられるものなら、無視できるものなら無視したいって、ずっと思ってるんだ！それを、まるで僕が好き好んで面倒見てるような言い方ってないじゃないか！」 「待て、落ち着け、翡翠」 「それも、君に言われるくらいならまだしも、何であんな、見ず知らずの人間に・・・！」 「待てって！お前、一体なんのことを言っているんだ？！」 「『法廷』食堂の支払いだよ！十万を下回らない月はないんだぞ？！」 「・・・すると何か、お前は、」 爆発するような揚羽の笑い声を背に受けて、翡翠はむすっとしたまま、応接室を出た。滅多に笑顔さえ見せない「氷の女」の爆笑を聞いて、廊下にいた巡察官たちは恐ろしげに顔を見合わせていたが、翡翠はそのまま治安『法廷』へと戻っていった。 「おい」 「あっ、揚羽監理官、ご苦労様です」 本来、翡翠の事情聴取を受け持っていた巡察官が、さっと敬礼をする。揚羽は巡察官に調書ファイルを無造作に返した。 「翡翠が、・・・治安『判事』があの男の術を破ったのは単に、一時的に激昂したというだけのことだ。特別な訓練や原因があったわけじゃない。参考にはならんな」 「はあ・・・あの沈着冷静な方が我を忘れるほど感情を昂ぶらせるというのは、一体何があったのでしょうか？」 やはり、それを言わなければ誰も納得しないだろう。翡翠が絶対に言いたくない、と珍しく駄々を捏ねたのも、むべなるかな。揚羽は苦笑して肩を竦めた。 「もう苦しまなくて良いんだぞ、と言われて腹が立ったそうだ」 「・・・はあ・・・」 「今日、『法廷』食堂から『冥王』が治安『判事』の名前で勝手に飲み食いした食事の請求書が回ってきたばかりだったそうだから、余計に腹に据えかねたんだろう」 「しかし、あの時は凶器を突きつけられていたのですよ。それを忘れるほど・・・」 「君も毎月毎月、他人が飲み食いしている代金を二十万近くも負担させられてみれば、あいつの気持ちもわかるかもしれないな」 「に・・・じゅうまん・・・」 絶句している若い巡察官を置き去りにして、揚羽は踵を返した。 「・・・結局、色つき雀のおかげ、か」 人を困らせることしかしていないような孔雀の行動だが、翡翠にとっては護られているようなものだ。孔雀は否定するだろうし、翡翠だって、命の危険すら忘却するまで激昂するほどに、拒絶してはいるけれど。 「ま・・・死ななきゃ良いか」 そう結論付けると、揚羽はそれきり、その件を忘れてしまった。 後日、「何故口止めをしなかった」と翡翠にねちねちと言い募られることになるのだが。 |