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ふわり。 前髪が揺れた気がして、翡翠は顔を上げた。 時刻は午前二時、草木も眠る丑三つ時、である。 「空風が通った・・・わけないよな」 窓はきっちり締めてある。ドアももちろん、締めてある。治安『法廷』はもちろんのこと、他『法廷』でも殆ど人は残っていないだろう。警備員には在室を連絡してあるから、治安『法廷』から光が漏れているからといって扉を開けたりはしない。二時間ごとの定時連絡はあるが、それは先ほど済ませたところで、「まだ残る」と伝えてある。 翡翠は何となく、辺りを見回した。 いつもと変わらない、治安『法廷』の執務室。自分のデスクの上の照明以外は消したいつもの部屋は、少しだけ、空気が違う気がした。 恐怖心が柳や枯れすすきを幽霊と思いこむ、というけれど。何も怖いものがなくなってしまった今は、壁の染みも何かの影も、染みは染み、影は影以外の何者でもなく、幽霊の姿さえそこに見出すことは出来ない。 「怖がることすらできやしない・・・か」 そういえば、孔雀はよく幽霊が出る場所があるだの幽霊が立ちつくしてこちらを見ているだの、幽霊に晩飯をたかられたの、きゃあきゃあ騒いでいるけれど、その場にいるときは馬鹿馬鹿しいこと限りないが、こうして考えてみれば、「幽霊」という存在一つであれだけ楽しむ（？）ことができるのだから、羨ましいと言えば羨ましい。 「孔雀を羨ましがるようじゃ、おしまいだよな」 くすりと笑った独り言が、やけに強がりに聞こえたのは、やけに空虚に聞こえたのは、気のせいか。 治安『法廷』の扉が開く音がしたかと思うと、執務室の扉が突然開き、「あ、いた」という声と共に姿を現した者が一人。 「こんな時間に、・・・何持ってんの？」 本当は、「こんな時間に何をしに来たのか」と訊ねようとしたのだが、枕とクマのぬいぐるみを抱えた珍妙な姿に、思わず問いかけを変更してしまったのだ。 「いや、お前、今日は家に帰る？」 「さあ、多分帰れないと思うけど」 「そか」 孔雀は何時の間に持ち込んだのか、『法廷』の引き戸を開け、孔雀の家で見た覚えのある毛布を引っぱり出すと、ソファーに横になった。 「孔雀、何しに来たんだい？」 寝るならば、狭いながらも案外小綺麗に片づけてある自分のアパートがあるではないか。なにもわざわざ寝心地の良くないソファーに、しかも人が仕事をしていてがさがさと落ち着かない空気の中で眠る必要はない。 尤も、孔雀が「空気が落ち着かないから眠れない」などとふざけたことを言うとは思ってもいないが。 「いや、目が覚めてさ」 「寝たら良いじゃないか」 「だから寝に来たんだろ」 「いやだから、自分の家で」 「俺んちの天井って、板張りじゃん？何かさ、目があって、見られてるような気がしてさー」 そうしたら箪笥の模様も目があったり、口が何かを叫んでいるような気がしてきて眠れなくなったのだという。 「・・・僕のうち」 「一人で寝ろっていうのか、お前は」 オマエは一体、いくつだ。 翡翠は溜息を吐いて、もう一度執務室を見渡した。 孔雀が静かにソファーで寝る準備をしているだけで、他は先ほどと何も変わりがない。なのに、何かが変わっている気がするのは・・・いつもと変わらない、いつもの執務室の空気しかないように思うのは、翡翠の気のせいか。 「もし帰る時は絶対起こせよ、一人で残して帰ったらぶっ殺すからな」 「はいはい」 天井の模様が怖くて眠れなくて、枕とクマのぬいぐるみ持参でおでかけですか。 ・・・案外楽しい人生なのかも知れない。本人は本気で怖がっているようだけれど。 すぐに聞こえてきた寝息を耳にして、翡翠は書類の山を見上げた。 「・・・置き去りにして帰りたいところだけど、ちょっと無理かなぁ・・・」 半泣きになって、あるいは激怒して追いかけてくる孔雀を見てみたい気もするけれど。 翡翠は苦笑して、仕事に気持ちを切り替えた。 空風はもう、吹かなかった。 |