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田舎町のバス停で、紀陸は同僚が移界してくるのを待っていた。屋根のついている待合所に居るのは、紀陸のほかには小柄な少年が一人だけだった。 空は、雲ひとつない青空。 （何でこんなトコまで来てんだろ、俺…） 殺人鬼を追いかけて、見知らぬ町で見知らぬ少年と二人きり。少し離れたところに座っている自分が、平行世界からやってきた人間だなんて思いもしないだろう。 そう、何故自分はこんなところまでやってきたのだろうか。 最初は、こんな気持ちになったことなどなかった。仕事にやりがいを感じていたし、誰かのために、誰かを守るために働くことに、何の疑問も感じていなかった。 感謝してくれと言っているわけではない。もちろん、「ありがとう」と言ってもらえたら嬉しいし、実際に礼を言ってもらった事も一度ならず、ある。その時はとても嬉しかったし、守ることが出来て本当に良かったと心から思った。礼を言ってもらえなかったからといって不満に思ったことも特にない。 だが、…いつの頃からか、空虚な気分が心の中に広がりつつあるのを感じ取ってしまった。 街を、人を守るのが、仕事だ。だから、守る。それ以上でも、以下でもない。いつの間にか、本当に「ただの仕事」に成り下がっていた。そこに紀陸の気持ちが少しも入っていない。したくてしているわけではない、だが、したくないわけでもないからしている、その程度のこと。 「その程度」のことに命をかける意味はあるのか。 「はあ…」 悩みながらの職務遂行は、命取りになる。それはわかっているが、こんなに美しい青空を見上げていると、どうしても考えてしまうのだ。 美しく晴れ渡った、青い空。 こんな風に、何の曇りもない心境になれたら良いのに------ 「…え？」 突然、鼻についた生臭い匂い。 ベータ・ゾーン特有の、そして、地下街に染み付いた、血の匂い------咄嗟に気配を探りながら近くに座っていた少年に視線を移すと、ヒマそうに目を落としていた本から顔を上げて、一点を凝視していた。 その先に在るのは。 「危ない！」 叫びながら少年を抱きかかえてベンチから転がり落ちると、狂ったような笑い声が響いた。 「うおー！命の恩人だ！」 続いて腕に走る、熱い痛み。 「でもガキが死んだら、恩人になり損ねるなあ！」 嬉しそうに笑い、叫びながら、追跡中だった指名手配中の殺人鬼、フリュイが銃口を向けていた。 「逃げろ、早く！」 フリュイは足も遅いし、射撃もそう上手くない。少年一人だけでも、上手く逃げれば命は助かるはずだ。アルファ・ゾーンの警察が動き出せば、こいつはベータ・ゾーンへ帰る。こそこそ逃げ隠れしながら、自分は絶対安全な場所にいて、そこから、力の弱い子供や女性、老人を殺すのが好きなヤツなのだから。 どうして同僚より先にコイツに出くわさなくちゃならないんだ、どうせなら二人揃ってからくればいいものを、とか。 別に、「命の恩人」になりたいからかばったんじゃない、とか。 相手があることではなくて、例えば自然災害、崖崩れに巻き込まれそうになっていても、やっぱり庇ったかな、とか。 誰かに見られていなくても、ここで見過ごしても誰にも咎められなくても、やっぱり守ろうとしただろうな、とか。 本当に、自分は、何をやっているんだろう……とか……。 「死んだら二階級特進かぁ？！」 動けないケガではなかったけれど、まるで、夢の中にいるように、ぼんやりとして身体が動かない。フリュイの指が、引き金を引こうとしているのが、嬉しそうに狂った笑みを浮かべる口元から覗いた犬歯が、奇妙にはっきりと目に映った。 「死ねばな」 冷静な誰かの声が紀陸の耳に入った次の瞬間、するり、とフリュイの腕がずれた。やっぱりやめておこう、と思い直したように指がまっすぐに伸びて、そして、どちゃ、と濡れたような音を立ててアスファルトに転がった。 「ぎゃぁぁぁぁぁあああ！」 「…命の恩人になり損ねたな」 少年が、笑った。 抜く手も見せなかった、いや、もともと刀など持っていなかった。今、少年の右手に握られている蒼く輝く刀身は、殆ど血の曇りもついていない。それだけ鮮やかな、巡察官研修所でもお目にかかれない、見事な腕前だった。 「君は、…」 「何か悩み事でもあったのか？ぼんやり考え事しながらじゃ、いくつ命があっても足りねえぜ？」 泣き喚き、肘から先を切断された腕を押さえて転げまわっていたフリュイに近付き、軽く足を上げて蹴り飛ばすと、それだけで男の身体がバス停の待合ベンチに叩きつけられ、白目を見せて悶絶した。 「『人界庁』の方がいいか？それとも、ベータ・ゾーンに連絡するか？」 「…いや、もうすぐ同僚が来る」 「ふーん。じゃ、俺は消えようかな、バスも当分来ないみたいだし」 忌々しそうにバス停を睨みつける少年の口ぶりでは、田舎町のバスにしては運行ダイヤが乱れるのはしょっちゅうあることのようだ。紀陸はもう一度、少年の手に握られた蒼い刀を見た。 恐ろしいほどに研ぎ澄まされた、刀。触れるまでもなく、全てを断ち切ってしまいそうな重い質量感にただ見入りながら、呟いた。 「…君は一体…」 「…『冥王』孔雀」 左の掌に浮かんだ、焔のような形をした痣がぼうと輝き、蒼い刀身を呑み込んでいく。少年------孔雀は紀陸の顔を覗きこみ、薄く、笑った。 「喋ったら、殺すぜ？」 漆黒の長い髪が、さらりと紀陸の頬を撫でる。 「…無理だよ、俺は合金刀を使っていない。それに、あの切り口は、絶対俺じゃないってわかってしまう」 「そっか、そーいやアイツも死んでないし、口止めは無意味か」 そんなことは言われるまでもなく、考え付くものだが、…孔雀は本当にたった今気付いた、と言わんばかりの顔で忌々しそうにフリュイを眺めた。 「一つ、教えてくれないか」 「何を」 「君は何故、俺を助けた？」 「…助けて因縁つけられるとは思わなかったな」 「『ガーディアン』は指令のない殺人を禁じられていると聞いている。殺せないなら、逃げれば済むことだったはずだ…何故？」 まさかこの少年があの『ガーディアン』、『冥王』孔雀だとは思わなかったが、たとえ孔雀ではなかったとしてもあの場から逃げられたはずだった。後も見ずに逃げ出せば、フリュイは深追いしなかったはずだし、『冥王』であるならなおさら、フリュイ程度の小者を相手にする必要はなかったのだ。 「やりたかったからだよ。それじゃダメか？」 「しかし、『トレーサー』を助ける義務は」 「誰が仕事だから助けたって言った」 途中で紀陸の言葉を遮り、孔雀は首を傾げた。 「お前は仕事だから、タダの人間だと思った俺を助けようと思ったのか？んじゃ、同僚なら見捨てたか？スラムの乞食なら見捨てたか」 「そんなこと」 「助けようと思ったから、だろ。何で自分がやりたいと思ったことをやって、因縁つけられなきゃなんねーんだ？殺したんならともかく」 「…やりたいと思った…？」 「仕事じゃなきゃ、助けちゃいけねーのかよ。お前だって、生まれついた時から『トレーサー』だったわけじゃねーだろーがよ」 仕事だから、ここに居た。 仕事だから、守らなくてはならないと思った。 最初は、「仕事」ではなかった。 街を、人を「守りたい」と思ったから、仕事にした。 誰かのためではなく、自分のために。自分の欲求に従って、犯罪と戦おうと思った。 自分のために戦うことが、何故、悪いのか。 何故、他に「目的」を探し出そうと足掻いていたのか。 「…そう…だな。そうだった」 「お前といいちーすけといい、『トレーサー』ってマヌケばっか揃ってんのな」 そんなんで命を投げ出して誰かを助けるなんて恐ろしいこと、よく出来たもんだよ、と笑いながら孔雀はひらひらと手を振って、立ち去っていった。 相変わらず、今日も空は青い。 だが、青い空を見ても、重い気分になることはもう、ない。 空のように、曇りのない心境にまでは到達できないけれど、でも、もう「目的」を探すことを目的に足掻くようなことは、ない。 紀陸は緊急出動アナウンスが流れないことを、他の誰でもない、街の人々のために祈りながら、装備の点検をはじめるのだった。 |