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その時、千歳は電卓を片手にテキストを睨みつけていた。大型火気の着弾点の計算式をマスターしなければ、特殊重火器取扱者の資格をとることが出来ないのだ。アルファ・ゾーンへ超界し、犯罪者を追う超界外勤トレーサーである千歳には、さほど特殊重火器を必要とする事態は起こらないのだが、内界捜査においては話が違ってくる。一通りの武器、火器を単独判断で使えるのとそうでないのとでは、犯人逮捕までの時間、周囲へ及ぼす損害、被害が格段に少なく、小さくなるのだ。 「おい、俺と勝負しろ！」 「へ？孔雀？」 千歳は目をしばたかせた。 ここは、『警察庁』の中の巡察部だ。孔雀が巣にしている（と以前口を滑らしたら治安『判事』に思い切り嫌な顔をされてしまった）治安『法廷』ではない。なのに、何故「居て当然」のような顔をしているのだろう。 「半径１の円に内接するように作られた正十二角形の広場の面積を求めよ！」 「えっ・・・それ、解けたら何かくれるの？」 「俺が翡翠のカネでお前に奢ってやる。・・・翡翠は高給取りだぞ」 孔雀がちらちらと見せびらかすように目の前にかざしているのは、治安『判事』の財布だろうか。 「・・・その問題、かして」 千歳は真剣な顔で、孔雀が持っていた問題集に手を伸ばした。治安『判事』である翡翠に対して恨みつらみは全くない。むしろ、親しみすら覚えているくらいだ。 だが、勝負に私情は厳禁だ。しかも、賞品は「治安『判事』のカネで奢り」だ。いつも、値段と分量が優先する食事に明け暮れている安月給の巡察官が、値段を気にしなくて済む、豪華な食事にありついてみたいと夢見ることが、罪だというのか？ 「えーっと、えーっと、正十二角形ということは、円の中心をＯとして、各頂点の隣接する二点と中心を頂点とする二等辺三角形が十二あるってことで、等辺の長さは円の半径と同じだから」 凄まじい勢いで頭の中を公式や定理が流れていく。こんなにアタマを使うことなど、巡察官採用試験を受けてから久しくなかったことかもしれない。 「角ＡＯＢは３６０°の十二分の一だから、３０°で、・・・あ！」 まさに、「エウレカ！」と叫びたい気分だった。問題そのものがそれほど難解なものなのか、という根本的な疑問はこの際棚上げにしておくとして、だが。 「わかった！三角形の面積は、二辺の長さとそれに挟まれた角のサインの値とを掛け合わせて、それに二分の一を掛けたものだから・・・！」 その場に居合わせた巡察官たちは、何かに憑かれたように数式を口走る千歳を、畏敬の念を以って見つめていた。高校生レベルの問題だということはわかるが、実際に解けるかというと、また別問題だ。実は千歳が口走っていることの半分も理解できていないのである。「豪華な食事」という賞品が掛かっているとはいえ、この集中力、執念・・・自分には決して真似できない、と彼らは固唾を呑んで二人を見守っていた。 「１／２×１×１×ｓｉｎ３０°で、ｓｉｎ３０°は１／２だから、三角形の一つの面積が１／４で、それが十二個あるから、正十二角形の面積は、３だ！」 いつの間にかペンを握り締めて、孔雀に詰め寄っている千歳。 それに対する孔雀の答えは、簡単なものだった。 「ハッズレ〜」 「な、何でだよ？！」 「あのさ、工事を請け負った会社が手抜き工事したんだよな」 「・・・はぁ？！」 「んで、測量をちゃんとしなかったから、広場の面積は実際には３よりちょっとだけ少ないんだ。んーとね、０．１だけ狭いから、正解は２．９かな」 「そ、そんなのインチキだー！」 「俺は受注に関して不正が全くなかったとは一言も言ってない」 「く、クソオオォ・・・！」 がっくりとうな垂れる千歳と、してやったり、とほくそえむ孔雀。「千歳が負けたら」という条件を設定していなかったのが、孔雀の一抹の良心と言えなくもないだろう。 「失礼します・・・あ、やっぱりここに居た」 人事部係長の揚羽と共に現れた翡翠は、眉を寄せて孔雀を睨みつけた。 「もう、勝手に僕の財布を持っていかないでくれないか」 「あ、『判事』・・・あの、正十二角形の面積の出し方、ご存知ですか」 他意はなかったのだ。ショックのあまり、呆然としている千歳があまりに哀れで、後輩として、フォローのつもりで塚沙は口にしただけなのだ。翡翠は不思議そうに首を傾げたが、千歳が握り締めていた問題集に視線を落として、頷いた。 「ああ、三角比を応用する問題ですね。二辺の長さとそれに挟まれた角のサインをかけて二で割る」 「じゃ、お前、この問題解けるか？」 孔雀が同じ問題を指差す。一瞬の間を置いて、翡翠は答えた。 「答えは３だろう？」 「違うよ〜だ。工事を請け負った会社が測量で手を抜いたから、答えはおよそ２．９」 孔雀を含めて、彼らは、忘れていたのだ。 翡翠が治安『判事』であることを。 人殺しよりも恐ろしい、冷たい血を持つ冷徹な人間であると畏れられていることを。 「不正がすぐに発覚して入札をし直したから、違う業者が施行しなおしてるんだ。今はもう３が正解だよ」 「な、ナニ？！」 「君の情報は古いよ。じゃ、揚羽、また」 孔雀の手から財布を取り返した翡翠は、にっこり微笑んで巡察部を後にした。 呆然と翡翠のあとを見送っていた孔雀は、はっと我に返って空になった手のひらを見つめて、悔しそうに叫んだ。 「クソオオォ！！また騙された！」 「・・・真正面から翡翠を騙そうなんて、百万年早いんじゃないのか、トリ頭」 「るさいっ、ちょうちょは黙ってろッ！くやし〜ッ！！」 治安『判事』、恐るべし。 こうしてまた、誤った情報が流れていくのである。 |