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その夜遅く、ドアを遠慮がちにノックする音がした。小さな音だったので、ぼんやりとしていた孔雀がもう少し深く「ぼんやりの世界」に入り込んでいたら、気付かなかったほどに、控えめな音だった。 「誰だよ…ったく」 時計はもう十一時前を指している。約束があったり、余程親しい間柄でなければ失礼に当たるような時間だ。こんな時間にドアを叩くような親しい人間はこの周辺にはいない、はずだ。扉についている覗き窓から来訪者を確認すると、「余程親しい」わけではないが、この時間に扉を叩くことには違和感のない人間が立っていた。 「…何やってんだよ、翡翠」 何時の間に降りだしていたのか、雨に濡れた翡翠が疲れた苦笑を浮かべた。 「いや、ちょっと水を飲ませてもらおうかと思って」 「上がれ」 「いや、ちょっとで良いんだけど」 「いいから上がれ。バケツ一杯飲めとかいわねーから」 「でも濡れると悪いから」 「うるせえな。水撒きに来たんじゃねえんだろうが」 水が絞れる程には濡れていないものの、大分降られたらしい翡翠にタオルを渡して座らせると、お茶を入れながら首をかしげた。 「こんな時間に何やってたんだよ？」 「ちょっと、金糸雀の店に行っていたから」 「…金糸雀の？お前、あの手の店は好きじゃないって」 「行かずに済むなら一生行きたくないよ」 実際のところ、店の側も来ないでくれるなら一生来ないで居てくれるほうがありがたいだろう。違法とまでは行かなくとも、少々怪しい風俗店で、従業員よりも綺麗な客など、嬉しくない存在だ。その上、翡翠はタダの「客」ではない。 翡翠は溜息を吐いた。 「彼女がまた、店長とトラブルを起こしてね」 「ああ、気があるとか何とかいう」 「うん。で、あの手の店は暴力団と繋がっていることが多いだろう？だから、どうしても経営者の方も『店の女はその気になれば自分のものに出来る』と思う人間が多くなるんだろうね。本当にビジネスライクな経営者は、絶対に手を出さないんだけれどね」 「で、今度のヤツはどうだった？」 「何とかできたら嬉しいけど、どうにもならなくてもそれはそれでオッケー、って感じ」 「困るじゃん」 「うん、困る。それで金糸雀が怒った」 「何で」 「アタシが欲しくないなんてお前はそれでも男か、って」 「…もっと困るだろ、それ」 「物凄く困る。おかげで僕まで引っ張り出された」 溜息を吐いてタオルに顔を埋めている翡翠を見て、孔雀は思わず呟いた。 「俺もお前も十分自意識過剰だけどな−…。」 「それは否定しないけど、彼女ほどじゃないと思う…」 「…同感」 結局、遠慮する翡翠に着替えを貸した孔雀は、首を傾げた。 「で、何で俺ん家へ来たわけ？」 着替えを借りに来たのならあんなに遠慮するはずもないし、ただ水が一杯飲みたかっただけならその辺に自動販売機が山と置いてある。翡翠が財布を忘れるはずはないし、もし忘れてきたとしても、少し我慢してベータ・ゾーンへ帰れば済むだけの話だ。 「…何となく」 「は？」 「いや、その、話が通じにくい人ばっかりだったから」 マトモな話の出来る人間と話がしたくなった？ 確かに、金糸雀の行動範囲と孔雀の家は、意識しなければ決して重ならないものの、その気になればすぐに寄ることができる距離だ。とはいえ、話したくなった「誰か」にベータ・ゾーンの人間ではなく、孔雀を選んだ翡翠。 「…お前も苦労してんな」 「…どうも」 余程精神的に疲れたのだろう、うたた寝を始める翡翠を眺めて、孔雀は肩を竦めたのだった。 |