|
もう、ダメだ。 僕は、ここで死んじゃうんだ。 矢汐は膝を抱えて震えた。 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。 どうしてこんなところへ落ちちゃったんだろう。 「洞窟の中に入っちゃダメですよー！」 せんせいは、そう言っていたのに。 「いっぱい穴が開いてて、そこに落ちちゃうと出て来れなくなっちゃうからね！いいですか、絶対に入っちゃダメですからねー！」 せんせいは、何度も何度もそう言っていたのに。 「寒いよ・・・」 今は夏のはずなのに、ここはとっても寒い。半袖のシャツ、半ズボンだと震えてしまうくらい、とっても冷たい空気が流れている。 「・・・架菜ちゃん、帰れたかな・・・」 とても高いところから、ほんの少しだけ、光が差し込んできている。 あの時、矢汐は架菜ちゃんを突き飛ばした。うんと、思いっきり。もしかしたら、架菜ちゃんは泣いてるかもしれない。石で転んで、血が出たかもしれない。痛い、って、泣いてるかもしれない。 ・・・だけど、架菜ちゃんはまだ良い。 パパとママのところへ、帰れる。 矢汐はもう、・・・帰れない。 ずうっと。 「・・・パパ・・・」 今度の日曜日には、遊園地に連れて行ってくれるって、約束したのに。 「ママァ・・・」 矢汐のお誕生日には、美味しいケーキを焼いて、お誕生日会をしてくれるって、言ったのに。 矢汐はもう、ここから、出ることが出来ない。 「う・・・」 泣いたって、出られない。 泣いたって、助からない。 だって、僕はここで、・・・・・・死ぬんだから。 ことん。 「矢汐くん・・・」 不気味に響く声。 まるで、幽霊みたい。もう、僕を迎えに来たの？僕はもう、死んじゃうの？ 「矢汐くん」 真っ暗な中に気味の悪い声が響いて、わんわんとヘンな音がする。すぐ右側でかつん、と石が落ちてくる音がして、矢汐は思わず悲鳴を上げた。 「ひっ・・・！」 「・・・いた！」 ざざざ、と岩の擦れる音、がつっ、と何か硬いものが岩の上に落ちた・・・違う、これは、降りた、足音・・・？ 「矢汐くん？」 ぱっと明るい光が矢汐の目を射した。眩しくて、思わず目を閉じてしまった矢汐の肩を、大きな手が掴んだ。 「矢汐くん、どこも痛いところはない？」 「・・・」 矢汐は恐る恐る目を開けた。眩しい光は矢汐の顔から少し外れていたけれど、辺りを明るく照らしていた。その明かりの中には、優しい笑顔を浮かべたお兄さんがいる。 「どこも痛くない？怪我とか、してない？」 「・・・うん」 本当は、穴から落ちたときに、あちこちぶつけて、ひりひりしているのだけれど。だけど、そんなの、全然平気だ。だって、矢汐は強い子だから。 「大丈夫？」 お兄さんは頑丈な手袋を脱いで、そっと頬を撫でてくれた。少しぴりっと痛みがあったけれど、我慢できない程じゃなかった。だから、矢汐は頷いた。 「うん・・・大丈夫」 「よかった」 お兄さんはにっこり笑って、矢汐のアタマを撫でてくれた。 「よく頑張ったね、えらいぞ」 そういって、背中に背負ったリュックサックの中から、分厚い毛布を出して、矢汐の体をすっぽりと包んでくれた。長時間洞窟の中に居た矢汐の体は、しばらくそれが温かいと感じられないほど、冷たく冷え切っていた。 「もう少しだけ、我慢できる？」 「我慢できる」 「そっか。・・・こちら千歳、矢汐くんを発見しました。多少衰弱していますが、異常ないようです、どうぞ」 『すぐに動かせますか』 「こちらは支障ありません。洞穴の入り口に但馬が待機しています、応援を」 『急行させます。あとは応援部隊の指示に従ってください』 「了解」 無線で連絡をしているお兄さんをじっと見つめていた矢汐は、怯えたように体を小さく丸めて震えていた。連絡を終えたお兄さんは、心配そうに矢汐を見た。 「寒い？」 「・・・僕を、怒らないの？」 はいっちゃいけません、とせんせいに言われていたのに。 架菜ちゃんが入りたいといってきかなかったのだけれど、入ってしまったのは矢汐も同じ。きっと、叱られる。たくさんたくさん、叱られる。パパもママも、とっても怒るだろう。せんせいの言うことがきけない子は、うちの子じゃない、って怒って、お家へ入れてくれなくなっちゃうかもしれない・・・・・・ 「・・・矢汐くん、架菜ちゃんを突き飛ばしたんだってね？」 「えっ・・・」 「ここへ落ちちゃいそうになったときに、架菜ちゃんを突き飛ばして、庇ったんだってね？」 「・・・だって・・・」 「自分が助からなくなっちゃうかもしれないときに、誰かを助けるってことはね、とっても難しいことなんだよ」 「・・・」 「お兄さんたちでもね、とっても怖いんだよ。お兄さんたちは危ない目に遭ってる人や、怖い目に遭ってる人を助けることも大事なお仕事の一つなんだけどね・・・だけど、それでも、とっても怖い」 「巡察官のお兄さんでも、怖いこと、あるの？」 「あるよ。怖くて、動けないこともある。だけど、お兄さんたちは、お仕事だから、頑張って助ける。もしかしたら、自分が死んじゃうかもしれないけど・・・」 高い上の穴から、おーい、と声がした。するすると降りてきたのは、縄梯子だった。 「矢汐くんは、架菜ちゃんを助けてあげたんだね。架菜ちゃんね、矢汐くんが助けてくれたから、絶対に矢汐くんも助けてあげて、って泣いてた」 「・・・」 「矢汐くんを怒るのは、パパとママのお仕事だから、きっとうんと怒られるかもしれないけど」 お兄さんはにっこり笑って、矢汐を毛布ごと抱き上げて、言った。 「・・・だから、お兄さんは怒らない」 「でも、・・・」 「矢汐くん、偉かったね。よく頑張った」 お兄さんに背負われて上へ上がった時、周りに居た巡察官のお兄さんたちはみんな、誰も矢汐を叱らなかった。みんなとっても優しく笑って、よく頑張ったね、偉いぞ、って褒めてくれた。 幼稚園のせんせいと、パパとママは矢汐の顔を見た途端、泣きながら物凄く怒って、一年分くらいいっぺんに叱られたような気がしたけれど。 「・・・お兄さん、ありがとう」 矢汐もパパとママの顔を見たら、うんと泣いてしまった。たくさんたくさん怒られて、たくさんたくさん泣いて、しゃくりあげながら、パパとママと一緒に、矢汐を助けに来てくれたあの優しいお兄さんにお礼を言いに行ったら、お兄さんはにっと笑って矢汐のアタマをぽんぽんと叩いた。 「あはは、パパとママにうんと怒られたなあ」 「本当に、何とお礼を申し上げて良いか・・・」 ママは泣きながら、何度も何度も頭を下げた。お兄さんは優しく笑って首を振ると、膝を突いて矢汐と同じ目の高さに屈んで、言った。 「矢汐くん、大人のひとがね、何かをしちゃいけません、って言うときはね、必ずやっちゃいけない理由があるんだよ」 「・・・うん」 「もしかしたら、どうしてダメなのか、ちゃんと教えてくれないかもしれない。でもそれはね、まだ矢汐くんには難しすぎてわからないから教えてくれないだけだから・・・もしそれをしてしまったら、矢汐くんや、矢汐くんだけじゃない誰かが、死んじゃうかもしれない」 「うん・・・」 「矢汐くんがそれをしてしまったせいで、架菜ちゃんや、パパやママが死んじゃうかもしれないんだ。矢汐くんがしちゃいけません、って言われることは、絶対にやっちゃいけないんだ。・・・わかるね？」 「うん・・・僕、もうせんせいの言いつけ、ちゃんときくよ」 「約束できる？」 「うん。約束、する」 「そっか」 お兄さんは、とても優しく微笑むともう一度矢汐の頭を撫でて、立ち上がった。 「千歳、撤収」 「ん、行く」 洞穴の上で待っていたお兄さんがぽんと肩を叩くと、矢汐を助けてくれたお兄さんが頷いて、そして、にこっと笑って矢汐に敬礼してくれた。 「ボーズ、元気でな」 「もう危ないところに行くなよ」 お兄さんや小父さんたちが、矢汐の頭を撫でて、敬礼して、大きなバスに入っていく。 「優しいお兄さんに助けてもらって、良かったね、矢汐」 バスが行ってしまった時、ママが矢汐に言った。矢汐は頷いて、それからパパとママを振り返って、言った。 「僕、おっきくなったら、あのお兄さんみたいな巡察官になる！」 とても優しかった巡察官のお兄さん。 でも、矢汐と約束をしたときのお兄さんの瞳は、とっても怖かった。矢汐を怒っているときのパパやママの目よりももっと真剣で、厳しかった。もし矢汐がウソをついていたら、きっとパパやママに叱られるよりももっときつく怒られただろう。 「あのお兄さんみたいな大人になるんだ！」 未来の巡察官候補生は、目を輝かせながら、輸送バスを見送っていた。 |