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バス停の前で手帳を広げ、時間を書き留めていた海原千里の肩をぽんと叩いた誰かがいる。むっと眉を寄せて振り返ると、そこに立っていたのは日本人離れした、すらりと背の高い美貌の女性だった。 「…何か御用ですか」 「交代してもらうように頼んできたから」 千里はますます眉を寄せて、先輩職員がさり気なくこちらを無視しながら近付いて来ているのを確認してから、黙って手帳をポケットに仕舞い、その場を離れた。 「で、何か御用ですか、先輩」 絶世の美女は、残念ながら千里の彼女でもなんでもなく、大学時代の先輩であり、職場の先輩でもあった。西新宿署のような一般の署ではなく、警視庁捜査一課で警部補としてその存在を知られている女性。 「君にちょっと新宿の状態を訊きたいのよ」 「俺に？…」 「だって、一番、新宿を歩いているのは君でしょう？」 確かに、捜査一課の人間は「くまなく管内を歩いている」とは言えない。事件があってそこへ行くのだから、逆に言えば事件がなければそこに行くことはない、のだ。一方、少年課刑事の千里は、「何かが起きる」ことを未然に防ぐためにそこへ行く。だから、街を歩くことは大切な仕事なのだ。 「それなら、俺よりも他の先輩に当たった方が」 「言ったでしょ。『新宿を知っている』ひとじゃなくて、『いま新宿を歩いている』ひとが必要なの」 「…何か事件が起きそうな予兆が？」 「いいえ、逆よ」 新宿で、本庁の一課が動くような事件があった？千里は頭をフル回転させたが、記憶の中にそんな動きはなかった。それに、西新宿署の捜査一課が合同で動いた形跡もない。警察は基本的には縄張り意識が強いが、本庁は全体的に、どこか地元署を軽んじている節がある。もちろん全てがそうだとは言わないが、完全に否定できる人間はいないだろう。だが、それでも、地元署の頭を飛び越して事件をさらっていくほどの無茶もしない。そのために「管轄」があり、人員が配置されているのだから。 「少年…事件ですか」 「当たり」 涼子は自分で言ってから、首を振った。 「でも、ないかな…確かに子供は関わっているけれど、事件そのものは刑事事件に該当するわね、大人の」 「もしかして、あの子が」 あの子、で通じるのはたった一人。 新宿だけではなく、渋谷、原宿の街の覇権を握るといわれている少年、東城光。今はまだ「子供の世界」だけだと言われているが、長じて大人になったときに、新宿の街は、一体どうなるのだろう？ 「光くんなら違うわよ。尤も、きっかけを作ったのはあの子だけどね」 「なら、直接彼に訊いた方が早いんじゃないんですか？俺もあの子の居場所を知ってるわけじゃありませんけど、住所は判っているわけですし、きちんと夜には家に」 別に、千里は拗ねたわけではなかった。 刑事の知識や情報がたかだか十四歳の子供に劣ることを認めるには忸怩たるものがあることを認めないわけにはいかないが、それとこれとはまた別の話だ。もしも涼子が詳しい、確実な情報を欲しているのならば、何も事件のことを知らない自分が関わるよりは、光から情報を引き出す方がより正確で、迅速に事件を解決することもできる。何より、子供が絡んでいるのなら、尚更早期の事件解決が望ましい。 「君も変わらないわね、全く」 ぽん、と背中を叩かれた。 「私が欲しいのは、彼の情報じゃないの。新宿を良く知る、優秀な刑事の助けが欲しいの」 「でも俺は少年課の所属ですよ？」 「許可は取ったわ」 まあ、あの課長なら、外見は本当に絶世の美女に「お宅の優秀な職員を是非使わせて欲しい」とにっこり微笑んで頼まれたら絶対に断れないだろうな、と千里は溜息を吐いた。 「あら、私の手助けは気に入らない仕事？」 「いえ、売られていく子牛の気分になっただけです」 「もう！」 涼子は笑って、今度はどしん、と力を入れて千里の背中を叩いた。 「課長さんだって、君を信用していなければ貸してくれやしなかったわよ。ちょっとは自分に自信をもちなさい」 「でも実際、新宿を一番知っているのは俺じゃありませんから」 「いいから、たまには言うことききなさいよ」 何となく、学生時代に戻ったような気がする。 いつも涼子は颯爽としていて、自分の信じた道をひたすら歩き続けていて、千里は迷いながら、悩みながら、本当にこの道でよかったのだろうかと振り返りながら、もたもたと手探りを続けている。 「大体、どうして光くんが君にちょっかいを出してくるのか、考えたことないでしょ？」 「え？」 「聞いてるわよ、君、最近彼と署内で遊んでいることが多いらしいわね」 「…遊んでるんじゃありません、遊ばれてるんです」 「私は光くんと知り合ってから一年以上、目も合わせてもらえなかったわよ。…まあ、出会いが最悪だったから嫌われても仕方なかったけど、本庁でも光くんに存在すら認識されていない刑事はごまんといるわ」 「どういうことですか」 「あの子が認めるのは、力のある人間だけよ。千里くん、君、電信柱に向かって話しかけたりしないでしょ？」 犬猫どころか、「電信柱」とは恐れ入る。犬猫ならば、独り言を呟く相手にしてもまだマシだが、電信柱に話しかけるのではただの酔っぱらいだ。 「時々でも、君に情報を教えたりするのは、君が何とかしてくれる、と信じているからよ。何もできない人間に、あの子が話しかけたり頼ったりするなんて絶対に考えられないわ」 「…頼りない新人でも、ですか？」 「やる気のない人間ならベテランでもお断りね」 涼子自身の感情も入っていたのだろう、斬って捨てるような気迫があったが、千里の胸には静かに、ゆっくりと染み入ってくる言葉だった。 やる気ばかりで空回りしてもダメ、ベテランでも気力がなければ使いものにはならない。。 どんな仕事でも同じことが言えるのだろうが、特に近頃は自分の不甲斐なさに打ちのめされることが多かっただけに、自信…とまではいかないが、多少は浮上することが出来る、言葉だった。 「…ちなみに、ちょっと聞いておきたいんだけど」 「何ですか？」 「西新宿署の一階廊下奥の自販機の前で海原千里を蹴飛ばすと良いことが起きるらしい、って噂はホントなの？」 「それこそ俺が思いっきりあのクソガキに遊ばれてる証拠なんですけど！っていうか先輩、ホントなら俺を蹴飛ばす気だったんですか？！」 「単なる好奇心よ」 いいえ、今貴女の瞳は「本当なら二度と立ち上がれないくらいに蹴り回してやる」と力強い光を放っていました。口が裂けても言えませんけど、もし口にしたら本当に蹴り回されそうですから。 千里は二度と一階廊下奥の自販機の前には立つまい、と心に固く誓いながら、そう思った。 |