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揚羽が病室に入ったとき、彼女は起きあがって編み物をしていた。 「思ったよりも元気そうだな」 「あら揚羽、来てくれたのね！」 交通事故で折れた足のリハビリ以外はヒマで退屈だと言っていたのを思いだし、揚羽は花よりも毛糸の詰め合わせ徳用パックを持ってきた方が良かったか、と苦笑した。 「なかなか来られなくて、済まなかったな」 「ううん、良いのよ。来てくれてありがとう、お仕事、忙しいんでしょう？」 嬉しそうに微笑む幼なじみの手元に視線を落とすと、生成の、少し黄み掛かった色の毛糸がとぐろをまいていた。 「相変わらずだな」 友人は揚羽の視線の先を追うと、にっこり微笑んで少し広げて見せた。 「どう？もう少しで出来上がるのよ」 編み物などしたことのない揚羽には、それが一体何のどの部分に当たるのかが全く判らない。だが、過去に何度も何度も「セーターを編んでいるのよ」と言われて編みかけの編み地を見せられたら、それが「どうやらセーターの一部分らしい」と学習するだけの能力はある。 その、白いセーターは女性用にしてはずいぶん大きいように見えた。華奢な友人になら、尚更だろう。 「随分頑張ったものだな。プレゼントか？」 「だって、病気じゃないし、一日動けないのもとっても退屈なのよね。リハビリは療養士さんが付いてなくちゃダメだって言うし・・・でも、彼のお誕生日に間に合わせようと思って頑張ったおかげもあるかな？」 ふふ、と笑うと友人は編み地をもう一度かざして見せた。模様の編み込みがある他は、いたってシンプルな作りだった。 「・・・その模様、昔から好きだな」 揚羽の声からは、何の感情も読みとれなかった。ただ単に事実を述べたに過ぎない。・・・職場の部下たちや上司なら、そう言っただろう。だが、友人は------沙那はほんの僅かに苦い笑みを浮かべた。 「------そうね。ずっと好きだった」 「後悔しているのか？」 揚羽は知っている。この友人が幼い頃から、近所に住む手芸洋品店の主人に「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とよく懐いていたことを。一人っ子で甘やかされて育ったお嬢さんの、幼く可愛らしい我が儘を笑って聞いてくれる青年店長に向ける目の中にある光の意味が、次第に変わっていったことに気付いていたのは、幼なじみの揚羽だけだったのかも知れない。 「・・・私、昔からあなたが羨ましかったのよ。あなたには素敵な優しいお兄さまがいらっしゃるのに、って。彼は私より年上だけど、いずれはだんな様になる人だからって言われ続けていて、なかなか甘えることが出来なくて・・・」 もともと大人しくて体が弱かった少女が、優しく親切で魔法のように毛糸を編んだり、端布で人形の洋服を作ってくれる青年を慕うようになるのも、当然だったのかもしれない。 「知ってる？これ、フィッシャマンズ・セーターっていうのよ」 「・・・冬になるとよく店長が着ていたな」 「ええ。編み方も教えてもらったの」 沙那はふと視線を窓の外へ移した。 「素朴で、暖かみを感じるところが好きなんですって」 「沙那も？」 しばらく、返事はなかったけれど。 やがて、ぽつりと答えが返ってきた。 「そうね」 「・・・」 「たぶん・・・あの人が好きだった」 振り返った沙那の顔はしかし、穏やかなものだった。 「ずうっと『お兄ちゃん』として好きなんだと思ってたの。でも、ちょっと違ったのね」 「・・・大丈夫なのか？」 この友人は、来月には結婚する。揚羽もよく知っている、幼い頃から婚約者の間柄だった男性が相手だった。親同士、家同士の取り決めた婚約ではあったが、家ぐるみの親しい付き合いで、相手は沙那を大切に想い続けてきたし、沙那も相手の男性を憎からず想ってきた。二人を昔から知っている揚羽も、あの男になら親友を任せられる、と思っていた。結婚すれば、二人は暖かく優しい家庭を築けるだろう。それには間違いない。 だが------ 「好きな男に渡せないものを彼に贈りつけるというのは感心しないな」 「いやあだ、違うわよ」 沙那は揚羽の言葉を軽く一笑に伏してしまった。 「私は彼が好きよ。私、きっと幸せになれるわ・・・これは、今までの私と訣別するためのものなの」 それは未練ではなく。昔、亡くした妻を想い続けて自分を振り返ってくれなかった男に対する当てつけでもなく。夫となる男性に対する愛を深めるために、自分の夫として愛するために。 そして。 「・・・いつまでも、子供のままじゃいられないのよね」 いつでも自分が思い立てば、好きな所へ好きな時に、自由気ままに振る舞うことが許されていた「少女の時間」はもうすぐ、終わる。いつまでも子供のままでは、少女のままではいられない・・・・・・ 「子供だった私との訣別のために、編んでいるの」 もう一度、沙那は編みかけのセーターをかざしてみせた。 「ほら、最初の方はちょっと目が不揃いでしょう？でも、だんだん上手くなって行ってると思わない？」 「・・・ああ、そうだな」 「多分、人生もこんな感じなのよね・・・最初は失敗もするけれど、でも、だんだん揃った、落ち着いた毎日になっていく・・・」 にっこりと浮かべた沙那の微笑。穏やかなその笑みは、確かに満ち足りた、幸せな女のものだった。 「心配してくれてありがとう、揚羽。私は幸せよ」 病院を出た揚羽はハイヤーの中で、沙那の言葉を反芻していた。 自分が未だに子供気分で居たとは思わない。そんな甘い気持ちが到底通じる職場でもないことは確かだ。だが、「女の幸せ」の一つの形を突きつけられた後では、自分は「女」として「少女」だった時から脱皮できているかと振り返ってしまうのだ。 「・・・訣別か・・・」 僅かな時間休をとって戻った職場には、もう回覧書類と決裁書類が小山を成して待っている。その中に、一通の封書があった。それは業務用封筒で、中身も負けずと殺伐とした内容の事務文書だったが、余白に小さな付箋が貼り付けてあった。短いけれど、いつも残業ばかりで夜が遅い揚羽の心配をしてくれているメモに、ふと揚羽の表情が緩んだ。 「・・・人の心配の前に、自分の心配をしろ、馬鹿」 今でも交流のある親しい異性の友人といえば、この相手くらいのものだが、・・・だが、警察官僚である前に、そして「女」である前に、揚羽は「揚羽」だ。属性に縛られることのない、「揚羽の幸せ」というものが存在するはずだ。 自分を案じてくれている友人が居る。それは、揚羽にとって、確かに「幸せ」なことだった。 揚羽は付箋を取って、予定がぎっしり詰まっているスケジュール帳に貼り付けると、そっとページを閉じた。 「・・・さて」 いつもの日常に戻った揚羽は、机上の小山を切り崩すべく、書類を取り上げるのだった。 |