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いきなりだった。 「君って呆れるくらい、何も見てないんだよね」 本当に、いきなりだった。札を受け取った腕を掴まれたのは。 「ずっと側に居たのに、一度も周りを気にしたことなんてなかったね」 リムレスの眼鏡をかけた若い優男。どちらかといえば繊細な雰囲気のある青年が、些か苦い顔をしていた。 「なんだよ、テメェは！」 「忘れた？先月会ってるけど」 「テメェなんぞ知るかよ！」 怒鳴って手を振り解こうとしたが、意外と掴まれた腕はがっちりと捕らえられていて、逃げることができなかった。それどころか、逆に壁際へ押し付けられ、巧みに身動きの取れない状態に持っていかれてしまった。 「こちら海原です、確保しました」 『了解』 トランシーバー越しに聞こえてきた声にはっと視線を動かすと、腕を掴んでいた若い男が眼鏡を外した。 「テメェ、西ジュクの…」 「だから先月会ったって言ったろ」 西新宿署少年課の刑事が、呆れた顔でこちらを見つめていた。 「次は無いよって警告も綺麗に忘れてくれたみたいだね。保護観察じゃすまないと思うから、覚悟しておくんだね」 海原というその刑事は少年の腕を掴んだまま、路地裏から表通りへと出た。 「全然気がつかなかった？こんなに大勢の人間が君を追い回していたのに」 道端で談笑している少年たち、風俗店の前で馬鹿笑いしているやくざ風の男たち。十人は下らない、害意のある目が彼を睨みつけていた。 『ポリに捕まるなんて、悪運の強いヤツ』。 彼らの目は、明らかに半殺しの目に遭わずに済む少年を忌々しげに見つめていた。 「千里、ご苦労さん。あいつらより先によく見つけたな」 集まってきた年配の警官たちが、ぽんと肩を叩いた。いつもならそこで笑顔の一つでも浮かべてみせる千里だったが、固い表情のまま、少年に言った。 「もっとちゃんと周りを見たほうが良いんじゃないのか？」 「…エラソーに言うんじゃねーよ」 知った風な口を、とまだ強がりを見せる少年に向けられた視線は、哀れみすら混じっていた。 「色々文句もあるだろうし、面白く無いことだってたくさんあるんだろうけど。…でも、自分で自分の視野を狭くして、どうしたいんだ？」 迎えのパトカーが近付いてくる。初めて不安の色を見せた少年には、まだ「恐れ」を覚えている少年には、見込みが残っているのかもしれない。半ば願いを込めて、千里は続けた。 「経験を積まなきゃどうにもならない部分もあるし、それは仕方ないけど…ただでさえ狭い視野をもっと狭くすることに、何か意味はあるのかい？それは君たちの嫌う『頭の固い大人』たちと同じ…いや、わかってやっている分、君のほうがそれ以下のことをしているんじゃないか？」 少年がパトカーで連れ去られた後、いつもと様子の違う後輩の背を、年配の刑事が叩いた。 「どうした、千里？」 「え…いえ、どうもしません」 「そうか？」 「…ええ」 元々目端の利く人間も居れば、自分で自分の目を塞ぐような人間も居る。だが、アレは「目端が利く」などというようなレベルの話ではなかった。情報を持ってきた少年は、下手な大人より余程経験が豊富で、街の様子をどこまでも見通せる、よく見える「目」を持っている。 「暗い顔してるねー」 聞こえてきた声にはっと顔を上げると、そこには顔だけは見知っているあの少年が、居た。 「お手柄立てた人には見えないよー？」 辺りを見回すと、先輩は事後処理の連絡のために、少し離れた車の側に居る。千里は苦いものがこみ上げてくるのを感じた。 「…おかげさまで」 「カツアゲも未遂だったし、チーマーにフクロにされる心配も、ヤーさんに簀巻きにされる心配もせずに済んだっていうのにさ」 自力で掴むべきだった情報を、この少年に教えられて初めて知った、そんな自分の不甲斐なさもある。だが、一番心に引っかかるのは------ 「どうして自分で動かなかったんだ？」 「何で俺が？」 「我々があの少年を見つける前に、チーマーに見つけられてしまうことも…リンチに遭うかもしれなかったのに」 「そりゃアイツの自業自得だろ？そんだけのことをしてたろ？何で俺が必死になってアイツを助けようとしなくちゃなんないわけ？」 「大怪我したかも、…殺されるかもしれなかったのに？！」 「…俺が助けたって、本当にあいつを助けたことにならないってわかってる？」 はっと口を噤むと、「人形」と裏の世界で呼ばれ、畏れられている少年は笑った。 「俺が力で捻じ伏せたって意味無いってこと、わかってくれた？」 警察官である千里達が少年を「補導」して、初めて彼は「矯正」される。「人形」の「力」で捻じ伏せて少年の行動を抑えても、ヤクザや街の不良少年たちに粛清されるのと、彼にとっては同じなのだ。 彼を痛い目に遭わせるのが誰なのか、そこが変わるに過ぎない。 「目が見えるようにしてやりたかったんだろう？」 「…君は何でもお見通しってワケかい」 「そこら辺のヤツより、ちょっとだけ先のことが見えてるってだけさ。俺にだってわかんないことはあるよ」 そして、「人形」は笑った。 「自分がいつ死ぬか、俺にだってわかんないよ？」 昏い笑いに、底の見えない深い井戸を覗き込んでいる心地がして、千里はしばらく茫然と「人形」の顔を見つめていた。 ふと我に返ったのは、彼がくすりと笑って身を翻してから。 「…また逃げられた」 |