|
きみがいなければ、この世界は存在しない。 でもね、世界はきみの思ったとおりに存在している訳じゃないんだ。 立ち聞きなんて、そんなつもりはなかった。 『法廷』に相応しくないにぎやかな話し声に、いや「ブチ殺す」という剣呑なセリフ に、思わず足を止めてしまったのだ。ゆっくりと左手を銃にかける。一介の警備員には不 必要とも思える装備だが、ここは『法廷』である。証拠隠滅を謀る凶悪犯や、『判事』の 命を狙う輩が潜んでいないとも限らない。ま、目的が治安『判事』の命である場合、潜入 者は十中八九ガーディアンだから、こんな拳銃ひとつで渡りあえるなんて思っちゃいない けれど。 「・・・じゃあね。『翡翠』さん個人は？」 この声は・・・あぁ、いつも律義に挨拶してくれる気のよさそうなトレーサーだ。 「・・・翡翠は、護るものだ」 ちょっとした沈黙のあとで、問題の人物はきっぱりと言い切った。 「翡翠が危険な目に遭うだろ。そしたら、俺が引っぱり出されるだろ。そしたら、 特別ボーナスくれるんだ、『法廷』が」 「・・・はい？」 「危険の度合いにも因るんだけどよ。この間、地下街へ降りた時は、十万も報奨金 くれたんだ！」 その得意気な口調に思わず吹き出してしまった。やれやれ。 いつもは重苦しく静まり返っている『法廷』だけに、騒がしいとどうしても良くない出 来事を想像してしまう。まさかここで、こんな他愛ないやりとりを聞けるとは思わなかっ たな。 ・・・けれど、彼の認識には大きな間違いがある。 『法廷』が金を払うのは翡翠さん個人のためじゃない。治安『判事』の安全が第一なの だ。普段はその激務に不相応な扱いしかしないくせに、いざ『判事』の身が危険に晒され ると恐慌状態になる。僕はそんな『法廷』の体質が好きではない。 それでも。あのメインコンピュータがぶっ壊れた事件以来、僕自身が耳にしただけで も、治安『判事』の必要性を肯定する意見は少しずつ増えてきてはいるけれど。 そんなことを考えながらぼんやりと角を曲がった。瞬間、目が痛くなるような西日が差 し込んできた。寒さはこれからが本番だというのに、陽は少しずつ長くなってきているの だ。勤務交代の時間まであと少し。時計を確認しようとして、自分がまだ銃を握っている のに気付いた。覚悟はできているつもりでも、いざとなるとだらしないもんだな。じっと りと汗ばんだ手をひらひらと振りながら、僕は階段を駆け降りた。 |